ニュージーランド縦断サイクリング1975.12-'76.1

「行った、銀輪走(走った)、見た、知った」……そして残った/サイクリングで駆け巡った彼との45年間

[32]ハーストとモエラキの間 ⇒ ハースト ⇒ ハースト峠 ⇒ オタゴ地方 ⇒ マカロラ ⇒ ワナカ湖

12月28日(日) 快晴

午前1時半から2時半にかけて、どこからともなく忍び込んだ蚊の大群と大戦争

今寝ている所は蚊の溜まり場らしく、この時はテント内の蚊を全てたたき殺して勝ったのだが……。

 

午前7時に、また「ブーン」という音で起こされた時には、戦況逆転してテント内は完全に占領され、その余りにも多い蚊の大群に再交戦の気力も失せ、すぐにテントをたたみ荷物をまとめて逃げようと思ったのだが……。

 

蚊の復讐たるや物凄く、テントを取りに行っては食われ、バッグを取りに行ってはまた食われと、テントの所に行く度に食われるため容易に近付けず、キャンプの始末が出来て出発できたのは1時間後の午前8時。

 

ニュージーランドの南島は実に寒く、ヤッケを着、手袋をはめての出発だが、「今は夏」が嘘みたいである。

しかし、俺としては朝早いせいか空気が冷たく、スッとして実に気持ちがいい。

 

走り始めて間もなく、不意に頭上で「ギャーッ」とものすごい声。

振り返るとオウム(インコかも)のようなデッカイ鳥が2羽、高い木から俺を見下ろしている。

丁度、飛んできて木につかまった所だったが、こういう鳥が自然の中で飛ぶのを生まれて初めて見た。

 

1時間半でハースト(Haast)に着き、ハースト川(Haast River)に沿って走る国道6号線を、今回の旅行で最後のヤマ場と思われるハースト峠(Haast Pass)に向かうべく、心もちハンドルを左へ切る。

国道6号線をハースト川に沿ってハースト峠に向かう(1975.12.28)

「たかが563m」と、いつもの甘い考えでいたのが間違いで、サンダー・クリーク滝(Thunder Creek Falls)を右手に見てゲート・オブ・ハースト(Gates of Haast)まではそれ程でもなかったが、ゲート・オブ・ハーストを過ぎてからのきつさといったらない。

サンダー・クリーク滝(1975.12.28)

ゲート・オブ・ハースト(1975.12.28)

ゲート・オブ・ハーストに架かる国道6号線の橋(1975.12.28)

ゲート・オブ・ハーストからハースト峠までの殆どを、自転車を引っ張って歩いた様なものだ。

 

追い抜いて行った車が少し行った所で待っていて、「乗っていかないか」と言ってくれる時は物凄く嬉しいと同時に、「Thank you. But no.」と断るのが悪い気もする。

 

しかし、レインガ岬を出て以来、今日まで全て自分の力で自転車を漕ぎ、押したり、引っ張ったりして来たし、これからも自分の力でスチュワート島まで行くつもりのため、この事を説明した上で感謝しつつも「Thank you. But no.」と言い続けてきた。

そして、相手は俺の気持ちを理解してくれ「気を付けて」、「良い旅行を」、「がんばれよ」などと声を掛け、握手して去って行くのだが、俺としては非常に気持ちが良い。

 

ハースト峠も近いのか勾配も緩やかになり、山には雪、左にはあれだけ大きかったハースト川が信じられないくらいに小さくなって流れ、その澄んだ水の美味さは格別だ。

ハースト峠も近くなり、ハースト川も川幅を狭める(1975.12.28)

そして、ハースト峠にやっと着いた。

ハーストから約63kmの距離にかかった時間は7時間45分。

ハースト峠(1975.12.28)

ハースト峠(1975.12.28)

このハースト峠を境にオタゴ(Otago)地方に入ったが、上りはあれだけきつかった国道6号線も、期待した下りは殆ど無いと言ってよく、それよりもハースト峠を境にして、今度は道路が未舗装になってしまう。

 

しかし、そんな事も しばらくすると忘れさせるかの様に、両サイドには牧場が広がり、羊、牛が草を食んでいる。

 

ずっと、昨日、一昨日とはまるで対照的な風景が続く。

こういう風景の中を走っていると、自然に気持ちもなごんで来る。

真っ青な空の下、燦々と降り注ぐ太陽の中に広がる牧場で草を食む羊・牛、そして雪を頂いた山々。

オタゴ地方(1975.12.28)

オタゴ地方(1975.12.28)

オタゴ地方(1975.12.28)

日本では味わえない様な、素晴らしい自然の中をただ一人走って行く内に、今度は雪を頂いたマウント・アスパイアリング国立公園(Mount Aspiring National  Park)の峰々をブルーの湖水に写すワナカ湖(Lake Wanaka)が現れる。

ワナカ湖(1975.12.28)

ワナカ湖(1975.12.28)

ワナカ湖を右に見ながら悪路を軽快に走り、湖畔でキャンプを張る。

ハースト峠を越えてオタゴ地方に入ってから40kmほど走ったが、舗装されていたのは4~5km位である。

 

まだ明るいので、ジャブジャブとワナカ湖の中に入って靴下を洗うが、もう9時半を回っているせいか水の冷たさといったらない。

 

午後10時。

フォックス氷河でビスケット8枚を食べて以来、実に38時間振りに食べ物を腹に入れる。

 

途中、マカロラ(Makarora)で店を見つけ買物した時の嬉しさは、ちょっと表現できないくらいで「これで36時間ぶりに飯が食べれる」の一言。

今思えば、峠に向かう道では「和食」しか思い浮かばなかったのが面白く、やはり俺は日本人なんだろう。

 

本日は、38時間振りに腹に物を詰めて、オ・ヤ・ス・ミ。

午後10時ごろのワナカ湖(1975.12.28)

※「澄んだ水の美味さは格別だ」について、前日の朝にビスケット8枚を食べて以降、

 彼は全く食べておらず水を飲んで空腹を補っていた。

※「38時間振りに食べ物を腹に入れる」に関して、彼は食料を入手してから2時間後

 にテントの中で食べる。

※「峠に向かう道では『和食』しか思い浮かばなかった……」について、彼は「学食の

 麺類やカレー、キッチンNの焼き飯の大盛り、Iの天婦羅定食が頭の中を駆け巡って

 いた」と話していた。

 ちなみに何れも安い物ばかりで、焼き飯は大盛りにする事により僅かな追加料金で量

 が倍近くになり、天婦羅定食はご飯粒を一粒も残さなければ、ご飯のお代わりがいく

 らでもできたらしい。

 

[31]フォックス氷河 ⇒ フォックス・グレイシャー ⇒ ブルース・ベイ ⇒ モエラキ 

 ⇒ モエラキとハーストの間

 

12月27日(土) 晴れ一時曇り

午前8時起床。

 

間もなく1台の車が氷河に向かって行き、道路の行止りで止めた車から2人の男性が降りて歩いている。

フォックス氷河でのキャンプ風景。道路の行止りに見学者の車が見える(1975.12.27)

フォックス氷河でのキャンプ風景(1975.12.27)

俺は残っていた食料のビスケット8枚を食べた後、キャンプの始末をする。

 

午前9時から氷河を見に行く。

目の前に見える氷河も、いざ歩くと意外と距離がある。

フォックス氷河の最下流とフォックス川(Fox River)の源流(1975.12.27)

フォックス氷河(1975.12.27)

来た以上、少しでも上を見たいという欲から、小さい岩だらけの山を上へ上へと登る。

相当に上って来たらしく、下を見ると人間がマッチ棒位にしか見えない。

もちろん、近くには誰もいない。

フォックス氷河の下流方向(1975.12.27)

不意にエンジンの音を耳にして何気なく空を見上げると、スキーを履いた小型飛行機が大きく旋回して飛んで行く。

 

俺が見た感じでは、フランツ・ジョセフ氷河よりも規模が大きく、目の前には柱状の氷塊が物凄い。

フォックス氷河(1975.12.27)

フォックス氷河(1975.12.27)

また、下からでは見る事ができないと言っても言い過ぎではない、上の方の流れが眼前にデッカク広がっている。

 

戻ろうとしたのが、どこでどう間違ったのか、逆に一段高い所に上がってしまった。

 

デッカイ岩の上に座って見るフォックス氷河は、眼前・眼下に広がり、前にもましてその迫力を一段と見せつける。

余りにも素晴らしい眺めをゆっくりと満喫して、今度は無事に下に降りる。

フォックス氷河(1975.12.27)

フォックス氷河の上の方の流れ(1975.12.27)

次いで、かねてからの夢でもあった「氷河の上に乗って記念撮影」。

しかし、氷河がこんなにも硬いものだとは知る筈もなく、予想だにしなかった。

 

何も知らない俺は「体がめり込んだり、氷が割れたらどうしよう」と思いながら、後ろ向きに恐る恐る「ソーッ」と足から降りる。

ある程度 硬い事がわかり、今度は足で2~3度 力いっぱい踏んで硬いと安心すると、楽に歩けるものだ。

 

安心してから数分間と短い時間だったが、ブラブラと歩く。

上には、山の上から氷河に乗って一緒に下って来たのだろう、岩の破片が無数に散らばっている。

フォックス氷河の上にて(1975.12.27)

フォックス氷河の上にて(1975.12.27)

氷河の上の小石を幾つか拾って、愛車の所に戻ったのは午後1時半。

何と4時間半も見ていた事になり、自分でも信じられない位だが、それだけの価値は十分あると俺は思う。

4時間半この場所で、鍵も掛けられずに待っていた愛車(1975.12.27)

フォックス氷河を後に、亜熱帯性植物が繁る道路をフォックス・グレイシャーの町に戻る。

昨日も思ったが、フランツ・ジョセフとフォックスの両氷河に向かうにも関わらず、道路の両サイドには亜熱帯性の植物が繁っていた事が不思議だった。

フォックス氷河からフォックス・グレイシャーの町に戻る道路(1975.12.27)

フォックス・グレイシャーから ずっと平坦だった道路も、ブルース・ベイ(Bruce Bay)を過ぎると打って変わった様に、とんでもない上り下りが続き、風と雲も出て来た。

ブルース・ベイの海岸(1975.12.27)

今、どの辺りに居るかは全く見当がつかないが、モエラキ(Moeraki)から相当 来た事は確かだ。

周りは森で、空には雲。

24日の事もあって、小さい橋の下にキャンプを張る。

 

フォックス・グレイシャー、ブルース・ベイで買物しなかったため食料は全く無く、砂糖をなめて水を飲むだけ!!

ブルース・ベイとハースト(Haast)の間の海岸線(1975.12.27)

※「小さい橋の下でキャンプを張る」の「橋」について後日に調べた結果、彼は「シッ

 プ・クリーク(Ship Creek)を跨ぐ国道6号線の橋だと思う」と輪行袋の中にいた私に話

 した。

※「ブルースベイとハーストの間の海岸線」について後日に調べた結果、彼は「ナイ

 ツ・ポイント(Knights Point)で見た風景だった」と輪行袋の中にいた私に話した。

※「砂糖をなめ」の砂糖については、19日にオタキを出る際にルイスが持たせてくれ

 たもの。

[30]ハリハリ ⇒ フランツ・ジョセフ ⇒ フランツ・ジョセフ氷河 ⇒ フォックス・グレイシャー ⇒ フォックス氷河

    ③フランツ・ジョセフ氷河~フォックス・グレイシャー~フォックス氷河

 

12月26日(金) 晴れ

フランツ・ジョセフ氷河を後に、来た時と同じ道を通って国道6号線に戻り、フォックス・グレイシャーに向かう。

フランツ・ジョセフ氷河を後に(1975.12.26)

ハリハリからフランツ・ジョセフまでの意外と平坦な道とは打って変わって、上り下りが3回もあり結構ハードだった。

 

午後8時ちょっと過ぎに、フォックス・グレイシャーの町に着く。

ここでフィルムと絵葉書4枚だけ買ってフォックス氷河(Fox Glacier)に向かう。

フイルムと絵葉書で35$56¢支払うが、フィルムは実に高い。

 

フォックス氷河に向かう道も未舗装で、水が横切っている所などスピードを出して突っ込まないと途中で止まってしまい、ズブ濡れになりかねない所も少なくない。

もちろんペダルを漕ぐ事は出来ず、足を前に上げて運にまかせる・

 

ここはフランツ・ジョセフ氷河の時とは反対に、右手が開け左手が山になっている。

 

午後9時近くと言う事もあってか、町に帰る車は3~4台見たが、俺を追い抜いていく車は1台も無い。

 

ここニュージーランドは、南に南下すれば南下するほど日の暮れるのも遅くなり、午後9時と言っても まだまだ明るい。

 

また、非常に面白く不思議に思ったのは、両氷河への道は いずれも両サイドはこんもりと亜熱帯性の植物が繁っていた事だ。

 

早くフォックス氷河を見たい、少しでも近い所から見たいと言う気持ちもあってか、自転車を引っ張って行ったのは良いが……。

石ころだらけで進むのも容易でなく、もう遅い事もあって遠い所から眺めるだけにし、寝る所について簡単にして考えた末に出たのが「ここでキャンプを張る」事であり、現在テントの中でこれを書いている。

フォックス氷河(1975.12.26)

テントから顔を出して見ると、空には満天の星が輝き、前にはフォックス氷河が横たわっている。

テントを開ければ、何時でもフォックス氷河が見える。

 

そして、物音一つしない静寂の中、澄んだ空気は冷たく、その中に居る人間は俺一人のみ!!

 

今日のキャンプは、俺のサイクリングにおけるキャンプの中で最高のキャンプだ!!!

 

しかし、寒い!!!

 

妹、叔母さん、友人のY、部活のS先輩 宛に先ほど買った絵葉書を書く。

※「来た時と同じ道を通って……」について、当時はこの道しかありませんでした。

※「簡単にして考えた末に出たのが『ここでキャンプを張る』事であり」については、

 適当な野宿する場所は当然の如く無く、彼は「町まで戻ろうか否か」で迷ったがキャ

 ンプを張る事にした。

 なお、彼は出発前にニュージーランド政府観光局で質問した際の返答もあり、キャン

 プを張る事について全く迷いは無かった。

 しかし、彼も私も「半世紀近く過ぎた現在においては、考えられない事」だろうと思

 っている。

[30]ハリハリ ⇒ フランツ・ジョセフ ⇒ フランツ・ジョセフ氷河 ⇒ フォックス・グレイシャー ⇒ フォックス氷河

    ②フランツ・ジョセフ氷河

 

12月26日(金) 晴れ

今しがた教会から見た、ワイホ川に架かる橋を渡り切った所で左折して真っ直ぐ進むとフランツ・ジョセフ氷河だ。

聖ジェームズ・アングリカン教会から見る、ワイホ川に架かる国道6号線の橋。
橋の袂の左手に見える道路はフランツ・ジョセフ氷河に向かう道路(1975.12.26)

氷河に向かう道路の両側には鬱蒼と亜熱帯性の木が繁り、左手奥からは川の流れも聞こえてくる。

進むにつれて山々からは水が流れ落ちるのが見られ、舗装されていない道路には所々で水が横切るようにして小川となって流れ、スピードを出して突っ込まないと途中で止まってしまいかねない。

もちろん、ペダルを漕ぐことは出来ず、勢いにまかせて濡れないように足を上げて進むしかなく、丸い石だらけの所ではハンドルを取られそうになる。

特に、深い所や幅の広い所では、運にまかせるしかなかった。

 

更に進むと正面が大きく開け、左手は平坦に広く開け、右手は断崖から水が落下している。

そして数分後、左前方に「山と山に挟まれた、白くデッカイ塊」が目に入る。

フランツ・ジョセフ氷河(1975.12.26)

日本を出る前から予想していた、イメージ通りの風景の中に氷河が横たわっている。

生まれて初めて見たせいかも知れないが、そのスケールのデカさと迫力は途轍もなく、ただ圧倒されるだけだ。

 

氷河の見学口に愛車を置き、カメラ2台とフィルムを持って、正面からの氷河を見に行く。

フランツ・ジョセフ氷河。駐車場の前の岩を上って氷河を見に行く(1975.12.26)

フランツ・ジョセフ氷河と氷河見学に向かう人達[やや左手下の岩の上](1975.12.26)

氷河を間近に見て驚いたのは、氷河というのは「川の流れがそのまま凍結した、平面の純白の氷の塊」だとばかり思っていたが、俺の見える範囲からは「平面どころか、想像だにしなかった柱状のデッカイ塊がズラリと並んでいる」光景で、目をみはってしまう。

また、色は純白ではなく意外と汚れていたが、自然の姿だからどうしようもない。

フランツ・ジョセフ氷河(1975.12.26)

フランツ・ジョセフ氷河(1975.12.26)

フランツ・ジョセフ氷河(1975.12.26)

地元の旅行者が下に降りていた事から、俺も岩がゴロゴロある中を苦労して氷河の真下まで行き、氷河の下を流れる水の出口、すなわちワイホ川の源流の前に立つと、そこはドームのような感じ。

氷の壁は水色に美しく、流れ出る水は「ゴォーッ」と物凄い音を立てて出てくる。

そして、ワイホ川源流の流れは、氷の塊とともに下流へと向かっていた。

フランツ・ジョセフ氷河の最下流でワイホ川の源流にて(1975.12.26)

フランツ・ジョセフ氷河の最下流でワイホ川の源流(1975.12.26)

ここで2時間ほど過ごしたらしく、愛車の所に戻ったのは午後5時半だった。

氷河に向かう道には苦労したが、やはり来て良かったと つくづく思った。

 

次いで、16マイル先のフォックス・グレイシャー(Fox Glacier)の町に向かう。

※「氷河の見学口に愛車を置き」について、当時は見学者対応の施設は全くなく、当

 然の如く「見学口」というのも無いため、彼が便宜上書いたもの。

 当時の見学は、駐車場の前にある岩を登って自由に見に行くスタイルで、私は鍵も掛

 けられずに岩に立てかけられていた。

 なお、彼は既に「この国の人は、他人の持ち物には一切触れないし悪戯もしない」と

 確信していたため、寝る時以外は私に鍵を掛ける事は無かった。

※「カメラ2台……」について、彼はスライドフィルムとネガフィルム用として各々1

 台持って行った。

 

 

[30]ハリハリ ⇒ フランツ・ジョセフ ⇒ フランツ・ジョセフ氷河 ⇒ フォックス・グレイシャー ⇒ フォックス氷河

    ①ハリハリ~フランツ・ジョセフの聖ジェームズ・アングリカン教会まで

 

12月26日(金) 晴れ

午前9時に昨日分の宿泊費4$を払い出発。

こんなに早い出発は、久し振りである。

 

今は夏のはずだが、今日は物凄く寒い。

昨日、一昨日の二日間に山には雪が降ったらしく、そんなに高くもないのに山々の頂は白く、24日に着いた時とは異なる様相にビックリ。

日本では考えられないだけに凄い所だ。

 

今朝の服装は、普段のTシャツにジャージ、ハイソックス、ニッカーボッカーに加え、ヤッケを着て手袋まではめている。

服装は みんな薄い物だが、息を吐くと白くなるのだから、やはり相当に寒いのだろう。

本当に今、夏なのだろうか?

ハリハリ(1975.12.26)

今日も両サイドには牧場が広がり、羊、牛、馬が草を食んでいる。

そして、左手の奥には頭に白く雪を頂いたサザンアルプス(Southern Alps)が屏風のように連なっている。

サザンアルプスを背に広がる牧場[ファタロア付近](1975.12.26)

国道6号線に沿って、森閑とした中にあるワハポ湖(Lake Wahapo)、サザンアルプスを背にひっそりと青々とした水を湛えて美しいコントラストを見せるマポウリカ湖(Lake Mapourika)が姿を見せる。

マポウリカ湖畔でヤッケと手袋を脱ぎ、服装も普通の姿に戻る。

ワハポ湖(1975.12.26)

マポウリカ湖(1975.12.26)

午後2時、フランツ・ジョセフ(Franz Josef)の町に入る。

予想外に小さい町だ。

フランツ・ジョセフ(1975.12.26)

先ず、聖ジェームズ・アングリカン教会(St James Angulican Church)に行く。

 

こじんまりとした小さな教会で、ひっそりとした中にありゴミ一つ落ちていない。

下にはフランツ・ジョセフ氷河(Franz Josef Glacier)を源とするワイホ川(Waiho Liver)が流れ、周りをシダの木に囲まれた中にサザンアルプスを窓に映すこの教会は、何か俗世界を離れた気分にしてくれる。

 

木のドアを開けて中に入ると、薄暗い中に正面の十字架を真ん中に、つい先ほどガラスに映っていた山々が、今度はガラス越しに聳え立っており非常に印象的である。

 

来訪者名簿があったので「O**** H*****, FUKUI, JAPAN」と記してこの素晴らしい教会を後にする。

聖ジェームズ・アングリカン教会。右のドアが入口(1975.12.26)

聖ジェームズ・アングリカン教会。窓に映るのはサザンアルプス(1975.12.26)

聖ジェームズ・アングリカン教会から見る、教会の窓に映るサザンアルプス(1975.12.26)

そして、この旅行で最も見たかったのが氷河。

その内の一つのフランツ・ジョセフ氷河(Franz Josef Glacier)に向かう。

※「シダの木に囲まれた」のシダの木とは、「ファーン」の事。

 

[29]ハリハリ

 

12月25日(木) 雨時々曇り

朝 起きると凄い雨。

 

今日はクリスマス。

隣の店は閉まっていたため、きのう買物をしておいて良かった。

 

干し物はと言うと、殆どの物は乾いていたが、一番肝心な寝袋と一部の服が未だ乾いていないうえ、雨が降っている事もあって、ここトーマシ・モーテル(Tomashi Motel)に もう一泊する事にする。

 

午前8時半に管理人さんの所へ行って、もう一日延泊を連絡。

 

昼からは雨も止み、晴れはしなかったが空を見上げると凄い速さで雲が飛んで行く。 

 

今日はクリスマスとあり、向こうのホテルでは酒でも飲んでいるのだろう、朝から景気が良い。

また、道路には車(トラック)に乗った「サンタクロース」が回っており、子供たちが囲むようにして一緒に歩いている。

ちなみに、真夏のハリハリでも「サンタクロース」の服装は日本と同じだったが、「霰」がちらついたのには驚くばかり。

 

ところで俺は何をしていたかと言うと、これから先の予定を立てたり、モーテルの近くをブラブラして一日過ごす。

 

なお、今後については後々のこともあり、サイクリングはオアマル(Oamaru)で打ち切る事に決め、インバーカーギル(Invercargill)のNACにてオークランドまでの航空便の予約をする事とした。

 

今日も写真は1枚も写さず。

※「今後については後々のこともあり」について、クライストチャーチ、ウェリント

 ン、オークランドで それぞれ二日ずつ滞在する予定の事を言っており、彼は復路にお 

 けるオークランドまでの国内線については全く予約していなかった。

※「サイクリングはオアマルで打切る……」について、計画ではスチュワート島に渡っ

 た後は南太平洋に沿ってクライストチャーチまで走行する事としていた。

 この打ち切りについては進捗の遅れが原因で、今後において更に短縮される事となっ

 たが、彼は「有意義な遅れ」として別段 悔やむことはなかった。

※今回も、彼は「写真が無いのは淋しい」として、26日に写したファタロア付近の牧

 場の写真をつけました。

ファタロア付近に広がる牧場とサザンアルプス(1975.12.26)

 

[28]ホキチカとロスの間 ⇒ ロス ⇒ ハリハリ

 

12月24日(水) 雨

午前4時半。

テントの天井から落ちてくる水滴で目を覚ます。

 

この国の天気の変化が激しいのは走行していて理解しているつもりだが、寝る時には「満天の星」であったのに……。

 

今に上がるだろうと思ったほか、まだ暗いので出て行く気にもならず、再度 起きたのは6時半。

しかし、雨が降り止む気配は無く、再び寝て3度目に起きたのは2時間後の8時半。

 

この時には、テントを通して入って来る水滴、言うなれば雨漏りで中はグショグショである。

テント、グラウンドシートはもちろん、バッグ、寝袋など殆どの物がズブ濡れで、テントの中には所々に水溜りが出来ている状態のため、下手に動けない。

 

運よく食べ物を入れたバッグだけは助かり、「先ずは腹ごしらえをしてから」と言うと聞こえは良いが、実際には余りの状態に呆然として何をしたら良いか分からず。

取りあえず食べ物を口に入れる事にする。

 

ロスまで行けばモーテルがあるだろうと、ズブ濡れの服の上に合羽を着、荷物をまとめて出発したのは9時半。

 

ロスに着いたは良いが、ホテルが2軒あるだけでモーテルは無し。

ホテルじゃ身の回りの物しか干せず、モーテルを探して先へ急ぐ。

 

小さい上り下りが続く森の中、大粒の激しい雨が情け容赦なしに降る。

 

少しの休憩も惜しく、頭の中には「ただ走る事と、モーテルまたは その看板がないか」、そして「雨が止んでくれるか、せめて小降りになってくれないか」だけしかない。

 

結局、ロスから約50kmの所にあるハリハリ(Harihari)でモーテルに入る事が出来た。

 

ハリハリの手前 約2kmの所でモーテルの看板を見つけた時の嬉しさは、俺だけにしか分からないだろうし、こんな経験は俺のサイクリングに於いて初めてだ。

 

ベランダと部屋の中は勿論、トイレやシャワー室の中まで干し物だらけ。

寝袋、テント、グラウンドシート、バッグとその中身は言うまでもなく、自転車と俺が身に付けているもの以外は全て干し物と言った感じで、干し物が無いのは俺のベッド上だけ。

 

ちなみに、このモーテルはツインの部屋で一泊4$。

このモーテルが今回のサイクリングに於いて、ユースホステル以外で初めて料金を支払って泊まる所となった。

 

隣に店があったので一段落したあと行き、今日と明日の食べ物を買いに行く。

今日はイブ、明日はクリスマスと言う事もあって8$余りと ちょっと贅沢をする。

 

久々にアイスクリームを食べる。

1リットル55¢で、安い上に美味い。

本当に美味いので嬉しくなってしまうが、1リットルとは物凄い量で これだけで腹一杯。

いかに好物でも、度を過ぎると きついものだ。

 

今はベッドの上でこれを書いているが、ベランダに出て見ると……。

外には色とりどりの電球を身にまとい、樹頭に十字架をおいて美しく着飾った木がクリスマスを祝っているかの様に見える。

 

今日は物凄い雨のため、写真は1枚も写せず。

※「モーテル」について、当時の日本で認識されていたものとは全く別物で、自動車で

 移動する人(旅行者を含)のためのホテル。

※「1リットルとは物凄い量」について、彼は日本で「1リットル入りのアイスクリー

 ム」など見た事が無く、好物でもあり価格も安いため、これぐらいなら大した量でも

 ないだろうと購入するも、いざ食べて見ると大変だったようだ。

 ちなみに、彼は「部屋に冷蔵庫が無かった事もあり、食べきらざるを得なかった」と   

 私に話した。

※「色とりどりの電球を身にまとい……」については、大木の両端の二筋に樹頭から木

 の枝に沿って普通の色とりどりの電球が下げられ点灯していたもので、現在の日本で

 言われるイルミネーションとは全く別物の単純なもの。

 しかし、彼と私は実際の木で点灯しているのを初めて目にした事もあり、暗い中での 

 光は本当にきれいだった。

※彼は「写真が一枚も無いのは淋しい」として、翌々日の26日に写した写真をつけま

 した。

 ファタロア川(Whataroa River)に架かるファタロア橋(Whataroa Bridge)のあるファタ

 ロア(Whataroa)は、ハリハリから約25km進んだ所。

ファタロア川に架かるファタロア橋から見るサザンアルプス(1975.12.26)



[27]マイマイイカマトゥア ⇒ グレイマウス ⇒ シャンティタウン ⇒ ホキチカ ⇒ ホキチカとロスの中間点あたり

 

12月23日(火) 晴れ

午前9時に出るつもりで8時半に起きたが……。

 

二人の子供が騒ぎながら遊ぶ中、トーストとケロッグのコーンフレークで朝食を摂り、その他いろいろとしていると知らぬ間に、また いつもの10時半になってしまった。

 

エリスンから渡された手製のクッキーとフルーツケーキ及びオレンジをバッグの中に入れ、ビルとエリスンのカークランドさん夫婦と二人の子供に見送られてマイマイを後にする。

マイマイ。右手前に泊めて頂いたカークランドさんの家、左手
前に野宿する予定だった鉄道の駅の屋根が見える(1975.12.23)

予定ではクマラ・ジャンクション(Kumara Junction)で泊まる計画だったが、意外と延びて大体ホキチカ(Hokitika)とロス(Ross)の中間点にある、山の中のレストエリアでテントを張っている。

 

昨日リーフトンから入った国道7号線を、マイマイからイカマトゥア(Ikamatua)、ブルーナー(Brunner)を抜けグレイマウス(Greymouth)に入ったが、この間には町らしい町も無く、強いて言えばイカマトゥアぐらいのものだろう。

ブルーナー(1975.12.23)

グレイマウスはファンガレイより少し小さいと言った感じだの街だが、人口は4分の1に過ぎないと聞く。

乗馬を楽しむ人を数人見たが、街の中を馬にまたがって闊歩している姿など日本では見られないだけに、実に優雅に見える。

グレスマウス(1975.12.23)

グレスマウス(1975.12.23)

グレスマウス(1975.12.23)

教会の前を、馬に乗って闊歩する女性[グレイマウス](1975.12.23)

グレイマウスからは また国道6号線に入り、燦々と降り注ぐ太陽の下、右にタスマン海を見るシーサイドコースを走る。

 

途中パロア(Paroa)にて左折し、ゴールドラッシュ時代の町を再現したシャンティタウン(Shantytown)に寄るが、着いた時にはすでに閉園。

仕方なく手前より望遠レンズを使って遠望。

兄から交換レンズを借りて来て、本当に良かったと思う。

シャンティタウン(1975.12.23)

シャンティタウン(1975.12.23)

同じ道を約3.5km引き返して国道6号線に戻り、ホキチカに向かう。

 

今日は強い向かい風だったが苦にならず、このシーサイドコースは好天も重なってか実に気持ちの良いコースだ

右手にはタスマン海が青々と広がっている。

パロアからホキチカに向かう国道6号線にて。左手奥に見えるのはタスマン海(1975.12.23)

国道6号線を気持ちよく走っていると、ホキチカに入る直前に「GROW-WORM DELL」と書かれた標識が有るのが目に入る。

「Grow-worm」を辞書で引くと「ツチボタル」とあり、「ツチボタルの谷」となる。

まさか、こんな所でツチボタルが見られるとは思いもせず、入り口から入って行くと、そこには幻想的な光の世界が広がっていた。

「GROW-WORM DELL」(1975.12.23)

「GROW-WORM DELL」のツチボタルの光(1975.12.23)

「GROW-WORM DELL」で最も驚いたのは、「写真撮影禁止」で無かった事で、日本の感覚から本当に写して良いのだろうかと思いながらも、1枚だけ写す。

 

「GROW-WORM DELL」を出ると、すぐにホキチカに入る。

ホキチカもきれいな街で、緑の芝生が広がる ゆったりとした街だ。

ホキチカ(1975.12.23)

ホキチカから少し進んだリム(Rimu)を過ぎると、打って変わって森林地帯となり、現在 俺はその中に居る。

 

現在、深夜12時ちょうど。

※「フルーツケーキ」について、ケーキはエリスンの手作りで、ケーキの約半分はドラ

 イフルーツが占めていた。

 彼の それまでの「フルーツケーキ」の認識は、生地の中に僅かにドライフルーツが入

 っているものだった。

[26]ロングフォード ⇒ マーチソン ⇒ ニュートン・フラット ⇒ イナングフア ⇒ リーフトン ⇒ ロトコフ ⇒ マイマイ

 

12月22日(月) 晴れ時々曇り(風強し)

午前6時半。羊の鳴き声で起こされる。

テントから首を出して見ると、後ろの牧場では羊が群れをなして俺のテントを見ている。

一旦 起きたのだが、また寝たため今日も出発は10時半。

 

走り始めて間もなく、馬に乗った女の子が「Hello」と声を掛けて駆け抜けて行った。

 

牧場が続く中マーチソン、ニュートン・フラット(Newton Flat)と走り、食料を買い込む予定のライル(Lyell)に入った。

 

しかし、ライルは地図にもあり地名の標識もあったのだが、国道6号線から見える範囲には一軒の家も見当たらず。

結局アイアン橋(Iron Brdge)の下を流れるブルナー川で顔を洗い、ボトルの水を入れ替えただけで終わってしまった。

 

ライルから約20km走ったイナングフアで(Inangahua)で買物をし、店の前にあった郵便局で一昨日 書いた葉書を出す。

3通で27¢、暮れには着くだろう。

ここでウェストポート(Westport)に抜けて海岸沿いを走る予定を大幅に変更し、国道6号線から分かれて国道69号線をリーフトン(Reefton)に向かう。

 

国道69号線は内陸部にあるため相当にきつい道を予想していたが、見事に外れて平坦そのもの。

これで、向かい風でさえなかったら快適そのものだろう。

 

途中、ロトコフ(Rotokoh)では一人の牧童に連れられた牛の群れが道路を占領し、車がゆっくりゆっくりと牛の後について走っている。

俺はというと、遠くからこの のどかな風景を眺める。

 

今日はロングフォードを出てから、予定を変更してリーフトンに抜け、ここマイマイまで ずっと横に川を見て走る意外と気持ちの良いコースだ。

リーフトン(1975.12.22)

リーフトン(1975.12.22)

現在、マイマイ(Maimai)の鉄道の駅でこれを書いている。

この駅もターリキの駅と同じで、小屋があるだけ。

 

……時は過ぎて、現在 深夜の12時半。

今度はベッドの上で書いている。

 

数時間前、駅でこれを書いていると、カークランドさんが「俺はビル。牧場のフェンスを直していたら駅に行くのが見えたので来たんだが、シャワーでも浴びに来ないか。家はすぐそこだから」とわざわざ言いに来てくれ、俺は二つ返事で好意に甘える事とし、道路に停められていた彼の車について行く。

 

家に着くと、奥さんのエリスンを紹介された後、タウポ以来でシャワーを浴びる。

シャワー室から出て「どうお礼を言おうか」と、皆の居る部屋のドアの前で考えていると、不意にドアが開いてビルが中に入れと言ってくれた。

部屋に入ると、中では暖炉が赤々と燃え、シャワー上がりの俺には暑いくらいだ。

 

食堂ではカークランドさん夫婦が、隣の老夫婦と その孫と思われる10歳位の女の子といろいろと話しており、俺もすぐに話の中に入れられる。

 

でっかいコップにビールを3杯くらい飲んだところで、ビルが「腹がへってるだろ」と聞くので「ええ」と答えると夕食の用意をしてくれた上、ニュージーランドウイスキーだと言ってグラスに注いでくれる。

 

食後、辞書を片手にウイスキーを飲みながら、俺の事、日本の事、このサイクリングの事、俺が見たニュージーランドの事を話す。

話が弾んで、終わったのは深夜12時ジャスト。

 

そして今、俺は話している途中でエリスンから「あなたのベッドはここよ」と教えられた部屋のベッドでこれを書いている。

 

リーフトンへの変更は、予想外の嬉しい結果をもたらしてくれたコース変更になった。

 

そして、何だかんだしているうちに午前2時になってしまった。

マイマイのカークランドさん宅にて、オ・ヤ・ス・ミ。

※「ブルナー川で顔を洗い、ボトルの水を入れ替えた……」について、この頃には、彼

 は「川の水でも流れが早く濁ってなければ衛生面など特に気にする必要はない」と思

 っていた。

※「暖炉が赤々と燃え……」について、暖炉を初めて経験した彼は翌朝「これほど暖か

 いというより、暑いとは思わなかった」と私に話したほか、「一寸したゴミは暖炉に

 放り込んで燃やしていた」とも話した。

 なお、彼の暖炉のイメージは「応接間や客間に設置されている優雅な装飾品」だった

 だけに、実生活に密着している事に驚いていた。

[25]リッチモンドベルグローブ ⇒ コハツ ⇒ コーレレ ⇒ ロングフォード

 

12月21日(日) 晴れ(風強し)

起きると物凄い風。

出るのを渋っていると、10時半になってしまった。

しかし、相も変わらず風はおさまらず10時45分でも吹いている。

 

余り気乗りはしなかったが、出て行くと今度はベルグローブ(Belgrove)を少し過ぎた所で、予想だにしなかった とんでもない坂があり、加えて向かい風。

自転車を押して歩くのだが、行けども行けどもつかない……。

 

頂上に着いた時には、「やっと着いた」と思ったくらいだ。

 

頂上には峠の名前を示す標識は無かったが見晴らし台があり、そこには見える範囲の地名が彫られた銅板(だと思うが)が設置されてあり、俺も眺望を楽しむ。

下方には、まだ坂にかかる前の道路、その向こうにはネルソンの街とタスマン湾(Tasman Bay)が薄く霞んで見え、これらを包むようにして森が広がっている。

スプーナーズ峠から見るネルソン方面(1975.12.21)

ここから一気に下るとコハツ(Kohatu)で、モツエカ川(Motueka River)の清流に架かるコハツ橋(Kohatu Bridge)から、遠方には白い帽子を被った山々も見える。

コハツ。モツエカ川に架かるコハツ橋から見る下流方向(1975.12.21)

コーレレ(Korere)で食料を買うと、店の主人が話し掛けてきた。

「どこから」

「ニッポンから」と言うとビックリした面持ちで

「今日はどこまで」

「マーチソン(Murchison)ぐらいまで」と答えると、俺にはそれほど良くは分からなかったが、いろいろと道路情報を教えてくれ、地図を描いて

「ここからホープ峠(Hope Saddle)までは、距離は短いが坂はきつい。そして、峠からマーチソンまでは距離はあるが、ずーっと緩い下りになっているから楽だ」と教えてくれる。そして「気を付けて行きなさいよ」と言われ、

「Thank you」と言って店を出、峠に向かう。

コーレレ(1975.12.21)

ホープ峠は標高634mと結構高く、相当にきつい坂を予想したためか それ程でもなく、上り坂よりも吹きつける風の方がきつかったくらいだ。

ホープ峠の正面にはネルソン湖国立公園(Nelson Lakes National Park)の山々が聳え立っている。

ホープ峠(1975.12.21)

下ると、グレンホープ(Glenhope)からはホープ川(Hope River)が並行して流れ、カワティリ(Kawatiri)からはブラー川(Buller River)となり、ゴーワンブリッジ(Gowanbridge)を抜けて現在地まで、牧歌な風景と相俟って道路と並行して川が流れる俺の好きなコースが続く。

ゴーワンブリッジあたり(1975.12.21)

ゴーワンブリッジあたり(1975.12.21)

今日は向かい風でなかったらそれ程きつい道ではないと思う。

また、地図に名前は有れど実際には家も何もないという、有名無実の所が多かった。

 

現在いる所はロングフォード(Longford)と思われ、川の横にあるレストエリアでテントを張る。

現在 午後10時15分。

※「頂上に着いた時には……」について、彼は後日に この頂上の名前を確認していたと

 ころ、「地図には『スプーナーズ峠(Spooners Saddle)』とあった」と輪行袋の中に居

 た私に教えてくれた。

 この事から、ブログの写真は「スプーナーズ峠」としてあるとの事。

 

[24]リンクウォーター ⇒ ハブロック ⇒ ネルソン ⇒ リッチモンド

 

12月20日(土) 晴れ(風強し)

午前10時半。

何だかんだとやっている内に、出発はこの時間になってしまった。

 

ハブロックは思ったほど大きな町ではなく普通の町で、何故かはわからねど期待しすぎての期待外れだった。

ハブロックから国道6号線に入り、ネルソン(Nelson)に向かって走る。

ハブロック(1975.12.20)

昨日と打って変わって強い向かい風と上り坂が多く、加えて247mのレイ峠(Rai Saddle)と379mのファンガモア峠(Whangamore Saddle)の、高さこそ低いがまあまあの峠に悩まされた、とんでもない一日だった。

 

また、ロトルア~タウポ間以来の11日振りで上着を脱いでTシャツで走るが、晴れているとは言え、風の強さで時に頭が痛くなる。

レイ峠(1975.12.20)

ファンガモア峠(1975.12.20)

ニュージーランドでもヒッチハイクが盛んなようで、相当数のヒッチハイカーと挨拶を交わす。

そして、挨拶したヒッチハイカーが車に乗って俺を追い抜く時、殆どの人が車の中から声を掛けてくれたり、中には運転していてクラクションを鳴らしてくれ、先へ進んで行った。

 

ネルソンの街も素晴らしくきれいな街だ。

 

ワイメア浦(Waimea Inlet)という、街中より少し離れた国道6号線沿いの浦にある海岸は、 それほど大きくはないが夕暮れ時の美しい砂浜で子供たちが遊んでいる姿など、まるで絵の様な光景だ。

ネルソン(1975.12.20)

ネルソン(1975.12.20)

ワイメア浦の海岸。砂浜の上に幾つか見える「小さい点」は子供たち(1975.12.20)

また、いつも思うのだが、走り始めてもう20日。

どの家の庭を見ても、 敷地一面には芝生が敷き詰められ、その上には種々の花が咲き誇っており、ゆったりとした姿は それはそれは美しいの一言に尽きる。

走りながら、こういう庭を見ているだけでも楽しい毎日だ。

 

昨日 モモランギ(Momorangi)で買った絵葉書を、ニュージーランドに来て初めて我家と友人のTとHに書く。

ニュージーランドは、これだけの限られたスペースでは とてもとても表現できない素晴らしい国で大変に困る。

明日どこかで出そうと思う。

 

現在、リッチモンド(Richmond)のメインホールの裏にて野宿。

※「運転してクラクションを鳴らしてくれ……」について、ニュージーランドのヒッチ

 ハイクもやり方は当時の日本と同じだったが、日本では同乗しているのしか見た事

 が無かった。

 しかし、ニュージーランドではヒッチハイカーが車を運転して持ち主は同乗というケ

 ースも多く、信じられない光景を目にして彼は驚いていた。

 このため、多くのヒッチハイカーが彼を見つけると、追い抜く際に「クラクションを

 鳴らしてくれる」のも可能だった。

[23]オタキ ⇒ ウェリントン ⇒ ピクトン ⇒ リンクウォーター

 

12月19日(金) 晴れ(風強し)

午前10時15分。

ルイスに見送られて出発。

 

出発して間もなく、昨日ルイスから紹介されたアングリカン教会の神父さんが、車の中から手を出して声を掛けてくれる。

もちろん、俺も「Thank you. Good buy」と答える。

オタキ(※1995.08.06撮影)

無理だろうとは思うが、午後2時20分発のフェリーに乗る予定で首都のウェリントン(Wellington)に向かう。

 

さすがにラグビーの盛んな国だけあって、プリマートン(Pllimmerton)の小学校では児童が真剣な顔をしてゲームをやっている。

 

国道1号線は、ポリルア(Porirua)で自然とモーターウェイになっていたため、今度は引き返して一時的に離れ、再び1号線に戻るとウェリントンだ。

 「ウィンディ・ウェリントン」とも言われるだけあって風が強く、真青な空の中、白い雲が物凄いスピードで飛んで行く。

珍しく追い風に助けられた事もあって、約80kmを丁度4時間という予想外のハイスピードで走ることができ、出港予定時間5分前の午後2時15分にフェリーターミナルに到着。

 

俺と自転車で3$75¢払ってフェリーに乗り込むが、この時間で切符を買えたこと自体が信じられない。

フェリーに自転車と一緒に乗ると、船内にも線路が敷いてあり、しっかりと貨車が積載されているのに驚く。

 

デッキに上がって30分後の午後2時50分にフェリーは港を離れ、俺は北島を後にして南島に向かう。

 

ウェリントンは首都だけあって大きい建物も幾つかあるが、日本とは比較にならない。

しかし、ここがニュージーランドの良い所だ思う。

ピクトン行きフェリーから見るウェリントン(1975.12.19)

ニコルソン湾(Port Nicholson)からクック海峡(Cook Strait)に出ると、風は一層強くなった。

しかし、船が大きいせいか そんなにも揺れず、予想外に快適な中をカモメの群れを従えて走って行く。

クック海峡を行くフェリーから見る北島(1975.12.19)

クック海峡からマールバラ入江に入る。クック海峡を挟んで見えるのは北島(1975.12.19)

マールバラ入江(Marlborough Sounds)に入ると風は急に無くなり、波静かな美しい入江が続く中をフェリーはすべるように先へ先へと進んで行く。

そして、船旅ならではの大らかで美しい風景が続く……。

マールバラ入江にて(1975.12.19)

マールバラ入江にて(1975.12.19)

ブライトウォーター(Brightwater)に帰ると言う人と話しているうちに、南島の入口となるピクトン(Picton)の町が見えて来る。

そして、ピクトン(Picton)の町は だんだんと大きくなってくる。

ウェリントン行フェリーから見るピクトン(※1997.08.04撮影)

下船直前のフェリーに積載された愛車。左手奥には貨車が見える(1975.12.19)

午後6時20分、南島のピクトンに上陸。

バス停には多くのパイプザックをかついだ旅行者がバスを待っている。

こういう所は、日本と同じだ。

 

ハブロック(Haverock)に向かうためハンドルを右に切り、踏切を越えたのは良いが、すぐに上りにかかり、いったん下って再び上り、実にきつい。

が、最初のルックアウトから眺めるピクトンの町は、弱い光を浴びて素晴らしく美しい。

ピクトン港に停泊するフェリー(1975.12.19)

ピクトン(1975.12.19)

久々にニュージーランドらしい緩い上り下りの激しい道路が続くが、それと並行して見えるシェークスピア湾(Shakespeare Bay)、オナハウ湾(Onahau Bay)、ロックマーラ湾(Lochmara Bay)やダブル入江(Double Cove)など、次々と現れる湾や入江の美しさも また格別だ。

 

 今日は、リンクウォーター(Linkwater)のメモリアルホールの横にてキャンプ。

※「国道1号線は、ポリルアで自然とモーターウェイになっていたため、今度は引き返

 して……」については、オークランドのハーバーブリッジでの経験から、この時の彼

 は冷静に対応していた。

※「クック海峡における船の揺れ」について、デッキにいた彼も、船倉にいた私も それ

 ほど揺れを感じず、彼はずっとデッキで風景を見ていた。

 しかし、1997年8月にピクトンからウェリントンに向かった時の事を、帰ってきた際

 に彼は「船が大きくなっているにも関わらず、波しぶきがデッキの上にある窓に吹き

 付けるとんでもない揺れだった」と輪行袋に入った私に話し、加えて「夏と冬の差か

 な」とも話していた。

シェークスピア湾(1975.12.19)

オナハウ湾(左)およびロックロックマーラ湾とダブル入江(右)を対岸に見る(1975.12.19)



 

[22]オタキ

 

12月18日(木) 雨(風強し)

本日、予定では南島にいるはずであるが、現在オタキにいる。

 

予想した好天は、何と荒天であり、とても出て行く気になれなかったのと、ルイスの勧めもあり もう一泊させて頂いてしまった。

 

午前中 ルイスが「アングリカン教会」と「マオリホール」を案内して下さる。

また、ルイスは俺を「アングリカン教会」の神父さんにも紹介してくれる。

両方とも全く知らなかったが、マオリ族の由緒ある建物で、素晴らしい建造物である。

余りにも素晴らしいだけに、観光で荒らされない事を祈る。

 

内部については、「アングリカン教会」の内部は非常に質素で最奥に祭壇があり、三方から入る外光により意外と明るい。

また、中央にある屋根を支える3本の柱に装飾は無いが、天井の梁や電灯の枠にはすべて伝統模様が描かれており、壁にも独特な伝統模様が配されている。

 

マオリホール」も内部は非常に質素だが、中央の2本の柱には伝統的な彫刻が施されているほか、壁面に立つ全ての柱にも伝統的な彫刻が施されている。

また、天井には伝統的模様が描かれ、壁面も全て幾何学的な伝統の模様が施されている。

 

雨の中を出かけると聞き、まさかこのような歴史的価値のある建物を案内していただけるとは思わず、カメラを持って行かなかった事が残念である。

また、ワンガヌイで見た人達と同様、ルイスも傘は持たずレインコートとスカーフ姿であったほか、洗濯物も殆どの家が取り込んでなかったのに驚く。

 

帰りにマーケットに寄って帰る。

ライス(米)が並ぶ棚の前で、ルイスに「粒が長いのと短いのとどっち」と聞かれ「短い方」と答えたが、今日まで「粒の長い米」がある事を知らなかった。

買ったライスは昼食にお粥みたいな形で出してくれ、久々に米を食べる。

 

娘さんのロベルタの家の夕食に招かれる。

夕方、ロベルタが友達のウェッジ、リンダ、ジュリーと迎えに来てくれ、3人とも良い人であった。

車に乗り込むと、全員がシートベルトを当たり前のようにしていた事に驚く。

 

ロベルタの夫君の父親は菜食主義者だそうで、メニューもコーンパイ、グリンピース、ポテト、ニンジン、レタス、トマト、その他パイ2種類。

デザートは摺ったレッドプラム、梨を砂糖に漬けた感じの物、イチゴに生クリームとヨーグルトを好みに応じてかけて食べるのだが、いずれもボリュームたっぷりの上に非常に美味い

食後、農園を見せてもらい、ウェッジの家に行ってしばらく過ごした後、町の集会場に向かう。

 

これはスピーチミリタリーを聞きに行ったのだが、俺は「連れて行かれた」の方が適当かも?

このスピーチミリタリーとは、1人の人が前に出て話すのを皆が黙って聞くことらしく、集まった年齢層は幼児からお年寄りまでと幅広く、人数も多かった。

 

午後8時20分に始まり4人が話したが、英会話力ゼロの俺。少し単語が分かった位で、どういう事を言っているのかは わかるはずも無く、実に退屈だった。

 

10時にこの退屈から解放されると、すぐにティーパーティに移る。

参加者めいめいが作って持ち寄った軽い食べ物をテーブルの上に広げ、手にはティーカップを持ってティーを飲みながら、世間話に花を咲かせる。

もちろん、俺も2冊の辞書を駆使して出来るだけ話す。

 

ここでは、俺を「外人」としてではなく「友人」として扱ってくれるので気持ちも非常に楽で、みんなに勧められるままに飲んだり食べたりして嬉しい悲鳴を上げ、有意義な時間を過ごした。

 

本日、ルイスがグリーンストーン製のメレ(Mere)を見せてくれ、カーキークさんはオタキのマオリのチーフの家系と言う事を知った。

 

オタキにてGood night。

※「アングリカン教会」は、「ランギアテア教会(Rangiatea church)」の事。

 教会は1995年に放火により全焼したが、2003年に内部も含め元の姿で再建されまし

 た。

※「マオリホール」は、「マオリ・ミーティングハウス(Maori meeting house)=ラウカ

 ワ・マラエ(Raukawa Marae)」の事。

 このマラエは観光用ではなく、実際に行事などで使用されているもので、彼が1990年

 に再訪した時には「グライアムから『葬儀の用意が行われており、外から見るだけで

 中には入れない』と言われた」と私に話してくれた。

 ちなみに、グライアムはカーキークさんの長女の夫です

※「アングリカン教会」、「マオリホール」共に内部は宗教上や伝統上から了承を得て

 写した写真は公開できず、「表現力が無いため、おおまかな言葉でしか紹介できな

 い」と彼は話している。

※「スピーチミリタリー」について、この言葉は彼が耳にしたものを そのまま表現し

 たもので、正しいか否かは未だに分からないらしい。

 また、結果的に楽しんで帰宅した彼は、「ティーカップを持ち歩く時は、カップを皿

 に載せて持ち歩くと言う事を知った」と私に教えてくれた。

※カーキークさんの長女夫婦と その長男一家が、2007年に彼の家を訪れている。

ランギアテア教会の説明板(※1995.08.06撮影)

ランギアテア教会(※1990.02.12撮影)

放火により焼失したランギアテア教会の跡(※2000.08.07撮影)

内部も含め放火前の姿に再建されたランギアテア教会(※2013.07.28撮影)

ラウカワ・マラエ(※1995.08.06撮影)

ラウカワ・マラエ(※2013.07.28撮影)

ラウカワ・マラエの塀の内側(※2013.07.18撮影)

ラウカワ・マラエを塀の外側から見る(※1990.02.12撮影)

 

[21]ワンガヌイ ⇒ トゥラキナ ⇒ ブルス ⇒ サンソン ⇒ フォックストン ⇒ レビン ⇒ オタキ

 

12月17日(水) 曇り時々雨

起きると、予想に反して雨。

 

スパゲティ、ハンバーグ(小6個)、魚の缶詰(トマトケチャップ煮)で朝食。

「外人?」はトースト4~5枚というのが多かったが、中にはステーキを食べている者もいる。 

 

今日の作業割当は部屋掃除。といっても「簡単に掃除機を掛けるだけ」である。

作業を終えて自転車の所に行くと、裏口から出て来たペアレントのおばさんから話し掛けられ、

「この雨の中を行くの」

「はい」

「今日はどこまで行くの」

「オタキ(Otaki)まで」のほかいろいろと話す。

そして、出発する時には「気を付けてね」と見送ってくれる。

 

本当はもう一泊したかったが、「午前10時から午後5時までは入れない」と言うのが引っ掛かって走ることに決める。

 

予定どおりというか、午前9時半に出発。

雨が降り止んだ中を走っていると、車に乗ったユースホステルの同宿者が手を振ったり、クラクションを鳴らしてくれるほか、窓から顔を出して「Have a nice traveling」、「Have a good traveling」と声を掛けてくれる。

 

きのう 走ったにもかかわらず、ハッキリしない記憶を頼りにワンガヌイ川沿いに遡って市街に入り、ワンガヌイ川に架かるワンガヌイ・シティ橋(Whanganui City Bridge)を渡ってワンガヌイの街と別れ、オタキに向かう。

ワンガヌイ・シティ橋にて(1975.12.17)

ワンガヌイ・シティ橋にて見るワンガヌイ川(1975.12.17)

トゥラキナ(Turakina)を抜け、ブルス(Bulls)からは5日振りに国道1号線を走る。

サンソン(Sanson)、フォックストン(Foxton)、レビン(Levin)と、時折り雨にたたられはしたが道路が良い上に起伏も殆ど無かったためか快調に進み、予定より2時間半も早い午後5時半にオタキに着いてしまった。

この天候の中で、こんなハイペースで走れるとは夢にも思わず。

 

オタキの町は、国道1号線より約2㎞海岸寄りにあった。

 

ローリーの両親の家を探すと難なく見つかるも、英会話力ゼロがたたって どの様に入って良いか分からない。

家のフェンスの前で、何と言って入って行けば良いのか分からず、中を覗きながら迷っていると、ローリーの父親のカーキークさんが不審そうに近付いて来る。

本来ならば気まずくなるのだが、この時は「ラッキー」と思った。

 

そして、彼にローリーが書いてくれた手紙を見せると、それを読むなり表情を緩めたカーキークさんは「家に入りなさい」と歓迎してくれ、奥さんのルイスにも紹介され改めて「ホッ」とする。

 

夕食後、ルイスも交え三人でお茶を飲みながら、辞書を片手に文法などは無視して単語をつなぎ合わせながら何とか話す。

特にルイスとよく話す。

いつもそうだが、会話と言っても相手が英和辞書を引いて一つ一つ示し、俺が和英辞書にて それに答えるというやり方が殆ど。

 

ルイスから「New Zealand Stone」、「Vorcanic」、「ティキ(プラスチック製)」、「羊毛を少量」、「パンフレット 2冊」をもらう。

 

明日はSouth Islandである。

 

オタキのカーキークさんの家にて。

※「スパゲティ」は缶詰のナポリタンスパゲティで、腹持ちが良い上に温めなくても食

 べられる事もあり、彼はこれをパンに挟んで食べていた。

 ちなみに、彼はこの缶詰がお気に入りで、後年ニュージーランドを旅行した際には、

 自分用も含め必ず土産として買っている。

再訪したカーキークさんの家。当時と変わっておらず[オタキ](※1990.02.12撮影)

再訪したカーキークさんの家。当時と変わっておらず[オタキ](※1990.02.12撮影)

 

[20]ワンガヌイ

 

12月16日(火) 雨

午前7時30分起床。

 

出発しようとすると、パラパラと降って来た雨が直ぐにザーザーに変わり、様子を見るべく10時に変更する。

それでも全く変わらず、なお一層 雨は強くなったので12時に変更するも、依然として変わらないため出て行く気にもならず。

 

かと言ってする事も無く、暇なので持って来た資料を見ていると、ユースホステル所在地のコピーが出て来た。

 

見ると、現在いるワンガヌイのキャッスルクリーフ(Castlecliff)に在るではないか。

直ぐに地図でキャッスルクリーフ探すと、地名はみつかるも、持っている地図からわかるのは「海の近くにある」という事だけだ。

 

最初は ここで もう一泊野宿を考えていたが、この場所には屋根はあるが あとは何も無いため、非常に寒い。

 

余りにも寒いため、すぐに身支度をして雨の中ユースホステルを求めて出発するも、どこをどう行ってよいかサッパリ見当もつかない。

ただ一つ分かっている「海の近く」という事を頭に置き、ワンガヌイ川(Whanganui River)を川下の方向に走り、あとは適当に自分の「勘」に頼って進むのだが、意外とこれが当たるから面白く、午後1時半にユースホステルを探し当てる。

 

探し当てたのは良いが、ドアには「午後5時まで開かない」と書いてある。

このため、買物やその他もろもろで午後3時まで時間をつぶしたが、する事も無くなり、残り2時間はユースホステルの裏手の雨の当たらない所で、強風の中 前にある波止場を見ながら ひたすら待つ。

 

午後5時ジャスト。やっと開いた。

アレントのおばさんに会員証を預け、1$80¢を払って2度目のユースホステル泊となる。

 

オークランドでも そうであったが、完全自炊でキッチンには あらゆる物が揃っており、材料のみあれば作るから食べるまで難なく出来る。

当然 食べ終わったら、使った物は一切を洗剤で洗い、用意してある布巾で水気を拭きとって、元のあった場所に戻しておかなければならない。

 

今日はタウポ以来で温かい食事となった。

夕食は、スパゲティと何やら自分で買ったのだが訳の分からない物を食べる。

しかし、外人は凄い。ステーキなどを食べている者もいる。しかも女性で、考えられない事である。

それに比べると、俺は何と言う粗末な飯であろう。でも、冷たい飯よりは ましだ。

考えて見るに、俺は常にジャムを持っている事に気が付く。ジャムは意外と使える物であり、持ち歩くと良いと思う。

 

ワンガヌイは雨の中 合羽を着て走ったが、走ってみても大きいと思ったほか、きれいな街だ。

しかし、写真を撮るには雨がひどすぎて とても撮れない状態であり、何か惜しい気もする。

なお、ワンガヌイの街中では傘を差して歩いている人は殆ど見ず、男性はレインコートに帽子、女性はレインコートにスカーフという姿がほとんど。

これが正しいレインコートの着方だろうか?

 

しかし、この寒さ。「日本の夏」には無い事だ。

本当に今「夏」だろうか? 実に寒い

今までの経験によると、曇天になると意外と寒くなるし、日が落ちてからは もちろん、午後6時半過ぎの日陰では、急な下り坂だと手が かじかんでくる。

 

今日のユースホステルには、英語圏以外の国の者は俺一人

ワンガヌイ市街(※2000.08.09撮影)