ニュージーランド縦断サイクリング1975.12-'76.1

「行った、銀輪走(走った)、見た、知った」……そして残った/サイクリングで駆け巡った彼との45年間

[46]資料関係

 

1.私が聞いた「彼のニュージーランドへの思い」は次のとおり

  ・入国から出国まで良い思い出しかない

  ・また、何時か来たい国

  ・お世話になった人達との出会いと今も続く交流

  ・素晴らしい国民と素晴らしい自然

  ・日本人が珍しい時代で運がよかった

  ・小さな国旗をバッグに付けて走ったが、これによりの国旗の重要性を認識する 

  ・道路は小さいアップダウンが意外と激しく、予想外だった

  ・気象の変化が意外と激しい

  ・季節的には真夏に走るも、中秋から晩秋の服装も必要

  ・食料などの生活必需品は安価だが、生活に特に必要のない物は高いと思った

  ・「高価なフィルム」について、帰国後に新宿のヨドバシカメラで持参したフィ

   ルムも含め全ての現像とプリントを依頼して取りに行ったところ、ニュージー

   ランドで購入した物については「現像費とプリント代が含まれています」と言わ

   れ、ニュージーランドで購入した物については支払うことなく持帰った 

  ・まさか、ニュージーランドが現在のようにサイクリングを前面に押し出した観光

   を展開するようになるとは思いもよらなかった

 

2.走行距離

     (日付)            (宿泊地)           (一日走行距離)         (総走行距離)

1975.12.01 レインガ岬を出発

                  テ・カオ        51km               51km

        12.02 マンゴヌイ      101km       152km

        12.03 トワイ        109km       261km

        12.04 プケカロロ     114km              375km

        12.05 アルバニイ      96km              471km

        12.06 オークランド     53km         524km

        12.07 ハミルトン     157km         681km

        12.08 ロトルア      118km          799km

        12.09 タウポ       101km          900km

        12.10 タウポ         0km            ―

        12.11 タウポ         0km            ―

       12/12 オンガルー     151km         1,051km

       12.13 ワイタンガ      63km          1,114km

       12.14 ターリキ      130km          1,244km

       12.15 ワンガヌイ     146km          1,390km

       12.16 ワンガヌイ      22km          1,412km

       12.17 オタキ       148km          1,560km

       12.18 オタキ         0km              ―

       12.19 リンクウォーター  107km          1,667km

       12.20 リッチモンド    146km             1,781km

       12.21 ロングフォード      120km          1,901km

        12.22 マイマイ        113km          2,014km

        12.23 ホキチカから      142km          2,156km

          約10kmの所

         12.24 ハリハリ        74km          2,230km

         12.25 ハリハリ         0km              ―

         12.26 フォックス氷河  112km          2,342km

         12.27 ハースト峠の手前    125km               2,467km

          約15kmの所

         12.28 マカロラから            112km               2,579km

           約10kmの所

         12.29 カードロナから            97km                  2,676km

           約10kmの所

         12.30 キングストンの手前     72km               2,748km

        約20kmの所

         12.31 ライムヒルズ            132km                  2,880km

1976.01.01 ブラッフ                        91km               2,971km

         01.02 ホースショー・ベイ     32km               3,003km

         01.03 インバーカーギル        54km                3,057km

※走行コースは、当ブログの「[1]準備~出発まで」を参照

※距離については、当時 政府観光局から送って頂いた地図にあった距離を

    使用するも、無い区間は地図上をデバイダーで測って割り出したもの

 

3.費用関係(※1US$≒303円、1NZ$≒320円、1SI$≒120円換算で計算)

   費用については、通貨を換算としてある事から厳密な計算は出来ず、

   差異が生じています

 

◎経費総額

  約875,000円

   ・往路と復路の航空券および出国から帰国までに使用した経費

 

 

◎経費の準備総額(※旅券6000円および天然痘接種代750円は除く)

  950,000円 (内訳) 550,000円 家から借入

             250,000円 月3万円の仕送りから捻出

             150,000円 夏冬の部活の強制バイトの収入

             ※「強制バイト」については部活に対する援助金が目的  

              で、必終科目は出席させられ、個人あてのバイト料は全  

              て各個人が受け取っています。

              なお、授業に出席していた時間と移動時間についても、 

              バイトの時間から削られる事はありませんでした。

  

◎外貨持ち出し額 

  1,500US$で、約454,500円

 

◎支出関係

  A.航空券                                             521,700円

   ①当初購入分 494,500円

     (往路)羽田→シドニーオークランド→カイタイア

     (復路)オークランドシンガポール→羽田

   ②現地購入分 約27,200円

    ・インバーカーギルダニーデンクライストチャーチ 29NZ$

    ・クライストチャーチウェリントン         23NZ$

    ・ウェリントンオークランド            33NZ$

   ③利用した航空会社

    ・羽田 → シドニー                日本航空

    ・シドニーオークランド          カンタス航空

    ・オークランド → カイタイア         NAC

    ・インバーカーギルダニーデン       NAC

    ・ダニーデンクライストチャーチ      NAC

    ・クライストチャーチウェリントン     NAC

    ・ウェリントンオークランド        NAC

    ・オークランド→(シドニー経由)→シンガポール ニュージーランド航空

    ・シンガポール→(バンコク、香港 経由)→羽田   日本航空

 

B.超過荷物量                       43,550円

  ①羽田空港:     羽田→シドニーオークランド    17,150円

  ②シンガポール空港:シンガポール→羽田(220SI$)   約26,400円 

 

      C.出国税                                                          約1,840円

     ①ニュージーランド(2NZ$)                                約640円

     ②シンガポール    (10SI$)           約1,200円

 

      D.土産総額                         約180,000円

 

   E.タクシー代                                                    約18,600円

     ①ニュージーランド                約15,000円

     ②シンガポール                  約 3,600円

      ※シンガポールは観光で回った際に使用したもので、空港からホテル

       までの往復については、理由は分からないが日本航空が負担。

       日本航空の負担について、彼は「往路・復路とも羽田発着の日本航空

       を利用したからかな」と思っている。

      F.宿泊費                        約23,080円

    ・オークランド   :ロイヤルインターナショナルホテル 1泊  5,920円

    ・オークランド   :オークランドYH         1泊    580円

            ・オークランド   :レイルトンホテル         2泊  4,800円

    ・ワンガヌイ    :ワンガヌイYH          1泊       580円

            ・ハリハリ     :トーマシモーテル                              2泊     2,560円

            ・クライストチャーチウィンザーホテル         2泊     3,840円

            ・ウェリントン   :ピーポーズパレスホテル      2泊  4,800円

                   ※シンガポールでの1泊は高級ホテルで、日本航空が負担。

                      これもタクシー同様に「往路・復路とも羽田発着の日本航空を利用した

      からかな」と彼は思っている。

 

   G.残金                         約75,000円

 

   H.サイクリング期間中に使用した経費     計算上では概ね89,950円

     ・期間は1975.12.01~1976.01.03の34日間で、1日平均 約2,646円

                             (1日平均約NZ8$30¢)

 

           I.その他

     ・準備段階から出発までの詳細については、当ブログの「[1]準備~出発

      まで」を参照

 

当ブログ「ニュージーランド縦断サイクリング1975.12-'76.1」は、はてなブログで公開している『「行った、銀輪走(走った)、見た、知った」……そして残った サイクリングで駆け巡った彼との45年間』の「[6]ニュージーランド縦断サイクリング1975.12-'76.1」を、別ブログとして作成し公開したものです。

 

日記、写真、記憶をもとに約半世紀前に体験した事柄を書いたものですが、情勢は現在とは大きく変化していると思われます。

 

このブログは今回で終了させていただきますとともに、つたない文章を読んでいただいた皆様に感謝申し上げます。

 

なお、『「行った、銀輪走(走った)、見た、知った」……そして残った サイクリングで駆け巡った彼との45年間』に、彼と私が45年間に経験した事を、何時の日か「[7]」として公開したいと思っています。

 

Mont Blanc  拝

[45]オークランド そして出国しニュージーランドを後に

 

1月10日(土) 曇り

何故かは分からねど眠れず、寝たのは今日の午前2時半。

今から寝ていいものかと心配したけれど、無事 午前6時45分に起床。

 

7時20分に朝食を食べにダイニングルームへ行く。

トースト3枚、コーンフレークス、ミルクコーヒーのほか、メニューにあった全く訳の分からない物を頼むと「トーストの上にミンチと野菜炒めがのったもの」が出て来た。

 

何時もだが、大した量でもないのに朝食だけで30分以上かかるから信じられない。

俺は朝食だけだが、ディナーなんか食べたらとんでもない時間がかかるであろうと思う。

その点、カフェテリアやテークアウェイは楽で良い。

 

朝食後、「明日はもう日本か」と思いながら、自転車、サイクリング用品、土産その他で50㎏はあろうかと思われる荷物を持って受付に行き、タクシーを呼んでもらってこれらを積み込み空港に向かう。

 

空港に着き、空港に備え付けられている台車にこれらの荷物を乗せ、ニュージーランド航空のカウンターに向かう。

 

チェックインの際、機内預け荷物が50㎏はあるため超過料金を心配していたが、料金は全く取られず、荷物チェックも全く無かったのには驚く。

 

他の搭乗者を見ていると、物凄い量の荷物を預けているのには目をみはるばかり。

オークランド空港のカウンター前ロビー(1976.01.10)

そして、チェックインと同時にカウンターで出国税2$を払ってから出国カードを貰う。

 

入国の際は飛行機の中で辞書を引きっ放しの孤軍奮闘状態だったが、今回は入国時と比べると信じられないほど進歩したもので、何も見ずに辞書を引くことも無く「1ヵ所」のみ残して埋まってしまった。

出国カードは未記入の1ヵ所を残したまま、「何とかなるだろう」と税関に向かう。

 

9時20分に通関。

出国カードについては未記入の1ヵ所に加え記入ミスが1ヵ所あったが、担当官が俺に話しを聞いて「未記入個所は記入、記入ミスは修正」してくれ、すんなりと通関できた。

通関を終え、出発ロビーに向かう通路[ターミナル側](1976.01.10)

通関を終え、出発ロビーに向かう通路[搭乗ゲート側](1976.01.10)

出発ロビーの免税店で部活の寮生への土産として、ニュージーランドで最も吸われていたと思うタバコ(銘柄はロスマンズ)2カートンをUS3.5$で購入。

また、昨日オークランドの免税店で購入したものも無事に受け取る。

寮生への土産として購入した「ロスマンズ」のパッケージ(※2023.02.07自宅にて)

10時10分、「オークランドシドニー経由シンガポール行の701便」に搭乗。

機材はDC-10で、座席は左側の窓から2番目の18B。

搭乗券で18Bと見た時、機内からの風景は諦める。

ニュージーランド航空701便の機内(1976.01.10)

席に座り、11月29日にガイドブック1冊、英会話の本1冊、英和と和英の辞書を各1冊、1枚物の地図2枚の資料しか持てずに入国してから43日間、ニュージーランドの人達の親切と優しさに助けられて旅行を終える事ができ、旅行中の日々の情景が次々と脳裏に浮かぶ。

 

そして、10時20分に飛行機はシンガポールに向け、曇天のオークランド空港を離陸した。

オークランド空港を離れるニュージーランド航空701便(1976.01.10)

今日はシンガポールに泊まり、明日は日本に帰国する。

 

なお、ニュージーランド航空701便の機内食を朝/昼/晩と食べたが、3食とも美味しい上にボリュームがあり、俺でも腹一杯になり、夕食などは食べ切れなかったくらいだった。

ニュージーランド航空701便の昼食4-1(1976.01.10)

ニュージーランド航空701便の昼食4-2(1976.01.10)

ニュージーランド航空701便の昼食4-3(1976.01.10)

ニュージーランド航空701便の昼食4-4(1976.01.10)

ニュージーランド航空701便の昼食で使用するナイフ、フォーク類(1976.01.10)

※「空港に備え付けられている台車」について、ニュージーランドでは無料で自由に

 使用できた。

 この事から、彼は帰国した際にニュージーランドの感覚で羽田空港に有った台車を使

 用していたところ、空港の職員から使用している事を注意されたが、到着ロビーの直

 前まで使わせてくれた。

 彼は「日本では自由に使える物ではない事を知った」と台車に乗っていた私に話しか

 けていた。

 なお、台車については現在の日本ではどこの空港でも自由に使え、当時を思うと隔世

 の感がある。

※「機内預け荷物の超過料金」については日本航空のみ支払い。

 羽田発シドニー便は総重量約40㎏で、超過重量20㎏に対し5㎏オーバーとして17,150

 円、シンガポール発羽田便は総重量約50㎏で、超過重量30㎏に対し15㎏オーバーとし

 てSI220$(日本円換算で約26,400円)を払う。

※「機内からの風景は諦める」について、隣の座席はインド人の子供の一人旅行で、彼

 は「うるさくて困っていた」にも関わらず付き合っていた。

 そして、1時間ほどして「写真を撮りたい」というと他の席へ行ってくれ、たまに戻

 って来ても彼の本来のB席に座ってくれた。

 彼は現金なもので、「うるさい奴」から「いい奴」に見方が変わっていた。

※「寮生への土産としてタバコ……」について、部活関係の土産は個人を除き全てタバ

 コと洋酒を購入。

 当時は現在と違い、洋酒および外国産のタバコは超高級品で学生に手が届くものでは

 なく、免税店での価格を見て余りにも安いのに驚きオークランドシドニー、シンガ

 ポールの各空港で購入。

 ちなみに、当時タバコは日本製が一箱100円に対し外国製は一箱400円から500円、洋

 酒については「ジョニーウォーカー黒ラベル」や「シーバスリーガル」が1万円だ

 った。

 ちなみに、彼はタバコは全く吸いません。

 

 

[44]オークランド

 

1月9日(金) 雨時々曇り

朝 起きると雨が降っている。

 

朝食を食べるも、雨が降っているため出るのを渋っていると、午前9時50分になってしまった。

 

まだ降っているが土産の事もあり、先ずは傘を買いにカランガハペ通りに行く。

商店街を見ている内に11時半になってしまい、通りにある店で安い折り畳み傘を買い、これを差してダウンタウンに向かう。

オークランドダウンタウン。道路はクイーン・ストリート(1976.01.09)

オークランドダウンタウン。道路はクイーン・ストリート(1976.01.09)

ダウンタウンのクイーン・ストリートに建つ「マオリ戦士の像」(1976.01.09)

今日は一日中、買い物をしていた。

土産は何時でも買えると思っていたが、この考えは現実においては非常に甘かった上、やはり「買う以上は良い物を」で難しいものである。

 

英会話力・英語力ともにゼロの俺でも、ほんの僅かだが聞き取れるようにはなったと思う。

店での会話は次のとおりで滅茶苦茶だが、それでも通じるから面白い。

宝石店などでの実際の会話。

  〈店に入ると〉

  店員:「May I help you」

  俺 :「Just looking」と答える

  〈買う物が決まったら〉

  俺 :「Excuse me」と店員に声を掛ける

   店員:「・・・(何を言っているのか理解できなかった)」が「どれにされますか」だ

     ろうと思う

  俺 :「Please show me a this one and this one」と指差す。

     見せてもらった物が思いと違う場合は「Another one please」

 〈確実に買うと決まったら〉

  俺 :「This one please」や「This one and this one please」

で通じるのだから面白い。

ちなみに「This one」については、日本語で「これ」と言っても問題なく通じていた。

 

ある本に「日本の英語はまるっきりダメ」と書いてあったが、これはちょっと言い過ぎだと思う。

しかし、現実においては「単語」さえ知っていれば通じるし、文法どおりでなくても理解してくれ、「単語」も出来るだけ簡単なものでOKである。

 

また、極端な言い方だが、スーパーマーケットなどで買物をする際には、「How much」以外の会話は話せなくても問題ないと言っても過言でない。

なぜならば、欲しい物を出してカウンターに持って行けば良いからである。

 

ニュージーランド航空の1階にある免税店に行く。

店内では日本人の団体客が買い物をしており、カウンター内には日本人の女性店員が1人おられたため、安心して買い物が出来ると思ったが……。

 

日本人の団体客が店内から去ると、その日本人店員が店内で商品を見ていた俺の所に来て「JALの方ですか」と聞く。

俺は「いいえ個人です」と日本語で答えると、彼女は他の外人の店員を呼んで対応を依頼して店から出て行ってしまった。

彼女は何か非常に急いでいるように見え、俺が個人旅行と答えた事で「英語については問題ない」と勘違いし、安心されたのではないかと思われる。

 

俺は予想外の出来事に非常に困ったが、いつもの「単語を羅列する、いい加減な英会話」で無事に万年筆を2本買い、トラベラーズチェックでUS80$を支払う。

しかし、買った万年筆はこの場で受け取るのではなく出発当日に空港で受け取ると聞き、驚くと同時に心配になるも「受取れなかった場合は諦めればよい」と開き直る。

 

買物に追われて、クライストチャーチで知り合ったペリー・ロバクに電話するのを忘れ、午後9時55分に電話するも居ないらしく、結局 連絡をとれなかった。

 

歩いていて驚いたのは、歩いている時に相手が俺の肩や体に触れると、男女を問わず殆どの人に「Sorry」または「Excuse me」と言われた事である。

こんな事は日本では考えられないだけに、非常に新鮮で驚くばかりだった。

 

また、アルバイトだろうか子供たちの新聞を売る声が、夕方のダウンタウンに響いていた。

 

今日は日本人が到着したらしく沢山の人を見たが、彼らは「日焼けで真っ黒な俺」を見ても、日本人に似ているアジア人と思っているに違いない。

しかし、日本人は個人で歩いている人は皆無で大体4~5人程度で歩いており、個人的では1組の夫婦が歩いているのを目にしただけである。

 

また、カメラを首にぶら下げているのは日本人だけではなく、国を問わず旅行者全員に言えると思うし、持っているカメラは日本のペンタックスが圧倒的であった。

ペンタックスについては、フランツ・ジョセフの聖ジェームズ・アングリカン教会で会った旅行者が、俺が持っていたカメラを見て自分のカメラを見せ「It is same. Very nice camera.」と言っていたのを思い出す。

 

ダウンタウンでは、週末とあってか、暗くなっても遊園地やウィンドウショッピングを楽しむ家族連れを含む人たちでにぎわっている。

夜のダウンタウン[オークランド](1976.01.09)

ダウンタウンにある小さい遊園地[オークランド](1976.01.09)

夜のタウンホール[オークランド](1976.01.09)

賑わう街を後に、途中の店でハンバーガーを4個買い、1個を食べながらクイーン・ストリートを歩いて午後10時ジャストにホテルに帰る。

 

明日はこの国とも別れなければならず、最後の荷物の整理をする。

レイルトン・ホテルにて荷物の整理中(1976.01.09)

整理を終えた機内に預ける自転車とバッグ2個の荷物3点。   
前列右のバッグが前日18$95¢で購入した物(1976.01.09)

本日で終わりなんて信じられないくらい早い42日間であったが、俺には随分プラスになったと思う。

そして又、本当のニュージーランドを知ったと思う。

素晴らしい自然、素晴らしい人達である。

俺は来て良かったと思うし、また何時か何時か来たい国、それがニュージーランドである。

 

マンゴヌイ、ノースコーテ、ハミルトン、タウポ、オタキ、マイマイの家庭でお世話になったが、嘘みたいに親切にされ、まさに信じられない経験をした。

 

では、おやすみ。

※「宝石店など……」について、彼はグリーンストーンとパウア貝のアクセサリーの購

 入については、土産店ではなく宝石店での購入にこだわっていた。

※「How much以外の会話……」について、彼は「少なくとも値段だけは聞いた方が良い

 と思うので書いたが、聞かなくても相手は理解してくれると思う」と話していた。

 しかし、彼は「無言と言うのは相手に対して失礼ではないかと俺は思う」と話してい  

 る。

※「カメラを首にぶら下げている……」について、当時の日本人は「エコノミックアニ

 マル」と海外から揶揄され、日本人を象徴する姿は「スーツを着てネクタイを締め、

 カメラを首にぶら下げている」が先進国から見たイメージだった。

 

[43]ウェリントンオークランド

 

1月8日(木) 曇り

午前8時に起床。8時15分に朝食。

 

今日はオークランドに入る。

いよいよ「終わりも近くなったなあ」と言う感じが強くなる。

 

部屋でボケーッとしていたらすぐに時間が来てしまい、10時にチェックアウトを行いタクシーで空港に向かう。

 

ウェリントン空港で、俺と同じ便でオークランドに行くと言う静岡県のOさんに会い、インバーカーギル以来で日本人と話す。

ウェリントン空港(1976.01.08)

ウェリントン空港のカウンター前ロビー(1976.01.08)

ウェリントン空港のロビー(1976.01.08)

ウェリントンクライストチャーチとは問題にならないくらい建物は大きく、天使の聖マリア教会の横の階段を上った所からのウェリントン市街一望も何とも言えず、忘れられない風景となった。

そして、ウェリントンを歩いている時には、俺は日本人を一人も見る事はなかった。

 

ただ一つ残念だったのは「ケーブルカー」が走っていなかった事。

天使の聖マリア教会(右手の建物)の横の階段を上った所から見るウェリントン(1976.01.07)

ウェリントン空港を発って1時間でオークランド空港に到着。

 

空港のカフェテリアでOさんに奢ってもらい、彼のカメラに一緒に収まった後、彼は乗り換え便でファンガレイへ向かい、俺はタクシーでオークランド市内へと別れる。

 

タクシーのドライバーは40歳位のオバさんだったが、いろいろと話して楽しかった。

 

助手席に乗り「レイルトン・ホテル(Railton Hotel)へお願いします」と何度口で言っても理解してもらえず、最後の手段の予約証を見せると直ぐに理解してくれた。

原因は「レイルトン」のアクセントであり、ホテルに向かう車中においては、運転するオバさんがが納得するまでアクセントの反復練習が楽しく繰り返された。

 

そして、単語を話しているつもりでも、「アクセントの違いで全く理解してもらえない」事を身をもって体験すると共に、サイクリング中の事を思うとニュージーランドで出会った人達の優しさを改めて思った。

 

何時でもそうだが、分からない時は「分からない」と日本語で言っても通用したため、俺はどれだけ使ったか知れない。

 

ホテルに着き、2泊朝食付きで15$を支払い部屋に入る。

部屋はツインで良い部屋だ。

 

部屋に入り、身の回りの整理をして(と言っても、持って歩かない物を部屋のタンスに入れるだけだが)、久々にクイーン・ストリートをダウンタウンに向かう。

クイーン・ストリート。右手のバスはトロリーバス(1976.01.08)

クイーン・ストリート。正面奥に見えるのはタウン・ホール(1976.01.08)

先ず日本航空の事務所へリコンファームをしに行く、

しかし、日本航空の事務所では出来ないらしく、ニュージーランダ―の職員は「1階(Ground floor)のニュージーランド航空(Air New Zealand)でして頂きたい」と、俺でも理解できたくらい分かりやすく説明してくれ、ニュージーランド航空にて行うと「OK  Sir. Thank  you」と言われ、俺も「Thank  you」と返答し、安心して街中に出る。

 

適当にウィンドウショッピングを楽しんで、入国日以来でアルバート公園に行く。

オークランド大学(Auckland University)や花時計、ヴィクトリア女王像(Statue of Queen Victoria)などを見て、入国した日に初めて来た場所がこの公園だった事を思い出しながら ゆっくりと過ごす。

アルバート公園にて見るオークランド大学(1976.01.08)

アルバート公園の花時計とヴィクトリア女王像[右手の像](1976.01.08)

公園を後に、タウン・ホール(Town Hall)を見ながらクイーン・ストリートをホテルに向かうも、足を伸ばしてカランガハペ通り(Karangahape Road)に行く。

 

通りをブラブラとしている時、帰国する際にお土産を入れるバッグが無い事が思い浮かび、18$95¢でバッグを1個購入。

高価だが これでも安い物を買ったつもり。

ニュージーランドでこのようなバッグは全体的に高価なため、安い方だろうと思う。

 

また、家族や餞別をもらった者への土産を本格的に買い始めるが、マオリの木彫りについては「Caved Rotorua」とあるものは、小さくても高価だった。

 

午後9時半にホテルに帰る。

※「ケーブルカーが走っていなかった事」について、彼は1990年2月にニュージー

 ランドを個人で再訪。帰国した彼は「2月13日にケーブルカーに乗って来た」と輪

 行袋の中の私に話したほか、「ルイスは娘さんの家に不幸があり、長女夫婦がオタキ

 やウェリントンを案内してくれ、オークランドではバーローさん一家に会って来た」

 と話していた。

 ちなみに、「ルイスには手紙で連絡してあったが、バーローさんは突然伺った」との

 事だった。

ケーブルカーの山上駅にて[ウェリントン](※1990.02.13撮影)

山上駅を出発したケーブルカーの車内[ウェリントン](※1990.02.13撮影)

※「1階(Ground floor)……」について、当時ニュージーランドでは建物の階の数え方は

 英国式で、「1階はGround floor、2階がFirst floor」であり、エレベーターの階表示

 も「1階はG、2階は1」だったが、現在はどうなのだろうか?

[42]ウエリントン

 

1月7日(水) 晴れ

午前8時15分に朝食。

 

午前8時45分に市内見物に出発。

昨日と同じ道を通り、ホテルのあるキューバ通り(Cuba Street)からラムトン・キーに出る。

キューバ通り。右手前から4番目の建物はピーポーズ・パレス・ホテル(1976.01.07)

ラムトン・キー(1976.01.07)

 

ラムトン・キー(1976.01.07)

この時間では早すぎて店が開いてないので、ウィンドウショッピングを楽しみながらウェリントン名物のケーブルカーに乗りに行く。

が、何と乗り場前の通りに「今日は走っていない」との立て看板が立ててあり、どうしようもないが、どうしても行きたい事から歩いて登る。

 

天使の聖マリア教会(St Mary of the Angels)の横の階段を上り、ヴィクトリア大学(Victoria University)の構内を抜けて、ケーブルカーの山上駅に着く。

天使の聖マリア教会(1976.01.07)

ヴィクトリア大学(1976.01.07)

山頂からはニコルソン湾(Port Nichoson)の広がりを前にしたウェリントンの街が一望でき、素晴らしい眺めにしばし浸っていた。

また、向きを変えると遠くに戦争記念鐘楼(Carillon and Hall Memories)とドミニオン博物館(Dominion Museum)が見える。

ケーブルカーの山上駅付近から見るウェリントン(1976.01.07)

戦争記念鐘楼とドミニオン博物館[中央にある建物](1976.01.07)

アイスクリームを買って食べながら、レディー・ノーウッドのバラ園(Lady Norwood Rose Garden)とベゴニア・ハウス(Begonia House)を見る。

 

レディー・ノーウッドのバラ園では、日本語が少し分かると言う女性と15分くらい話す。

レディー・ノーウッドのバラ園(1976.01.07)

バラ園を後にしてダウンタウンに向かって歩いていると、不意に車の中の男性から「How are you」と言われ、俺も「Fine thank you」と返す。

しばらくの間この男性と話した後、ダウンタウンに下りる。

 

国会議事堂(Parliament Building)と併設される議会図書館(Parliamentary Library)、南半球最大の木造建築と言われる政府館(Government House)、鉄道のウェリントン駅などを見て、港に向かう。

国会議事堂(1976.01.07)

国会議事堂側から見る議会図書館(1976.01.07)

政府館(1976.01.07)

国会議事堂を見学したが、いきなり何も知らずに行ったにも関わらず見学可能であり、外国人の俺に対しても特別な制約もないのには驚くばかり。

また、国会議事堂の左隣には新しい国会議事堂が建設中であった。

建設中の新しい国会議事堂と政府館[白い建物](1976.01.07)

市内にはトロリーバスが走っており、話には聞いた事があるが実際に目にするのは初めてなので、これにも驚く。

鉄道のウェリントン駅(左手奥)の前を走るトロリーバス(1976.01.07)

港に行くとピクトン行きのフェリーが停泊しており、乗船した日の事を思い出しながら、ベンチに座って景色を眺めたり写真を写したりしてゆっくりする。

花時計を見て、キューバ通りをホテルに向かう途中にあったフィッシュン・チップスの店に入る。

ウェリントン港に停泊するピクトン行きのフェリー(1976.01.07)

花時計(1976.01.07)

店には白身魚や貝類(パウア貝もあり)、野菜など色々な食材が用意されている中に、パイナップルもあったのには驚くばかり。

これらの食材の中から自分で好きなものを選んで揚げてもらい、チップスと一緒に紙に包んでくれたのを手に、キューバ・モール(Cuba Mall)通ってホテルに戻る。

 

ホテルにて今ほど買ったフィッシュン・チップスを食べるが、熱くて美味い。

しかし、パイナップルが大好きな俺だが「パイナップルの天婦羅」は初めて食べる。

フィッシュン・チップス。右の真ん中にある丸いものはパイナップル。
 熱かったため、湯気の関係で写りが悪くなっています(1976.01.07)   

さすがは北。

インバーカーギルよりは早く暗くなるため、時間的iにも気分的にも楽である。

大体30分かそれ以上早いと思う。

 

現在 午後9時26分で薄暗くはなってきているが、星を見るには未だ30分位ありそうである。

 

明日はオークランドへ発つ。

 

今日 歩いたコースでは、ニュージーランドで「クリスマスツリー」と呼ばれている真っ赤な花を咲かす「ポフツカワ」の木を至るところで目にした。

真っ赤な花を咲かせる「ポフツカワ」(1976.01.07)

※「建設中の新しい国会議事堂」は、現在のビーハイブ(Beehive)の事。

※「フィッシュン・チップスのパイナップル」について、彼は気に入ったらしく、これ  

 以降も目についた場合は、常に注文して食べたと言っていた。

 

 

[41]クライストチャーチウェリントン

 

1月6日(火) 曇り

午前6時半に起きたがベッドから出るのを渋り、結局7時45分になってしまった。

 

8時15分にダイニングへ朝食を食べに行く。

俺と相席になったビジネスマンは「ライス」を食べていたが、水(お湯かも)の中に米が沈んでいるような感じで、これに砂糖をかけて食べているのには驚くばかりだった。

 

8時45分から散歩に出かけ、ロールストン通りを左手に見て、エイボン川に架かるアーマー通り橋(Armagh Street Bridge)を渡り、ホテルの前にあるハグリー公園(Hagley Park)に行く。

ロールストン通り。右手の建物はクライスツ・カレッジ(1976.01.06)

エイボン川に架かるアーマー通り橋からハグリー公園に入る(1976.01.06)

ハグリー公園は大変大きく、ゴルフやローンボーリングを楽しむ人がいるスポーツ用グラウンドほか、種々の花が咲き乱れ木々が鬱蒼とする中、エイボン川がゆっくりと流れ、水面ではアヒルが遊んでいるという素晴らしい公園である。

 

日本には、このようにゆったりした公園はちょっと無いと思う。

ものすごく涼しく気持ちが良いが、歩き疲れか足が痛かった。

ハグリー公園と園内を流れるエイボン川(1976.01.06)

ハグリー公園と園内を流れるエイボン川(1976.01.06)

9時45分にウィンザーホテルに戻り、10時ジャストにチェックアウトすると、鍵と引き換えに1$戻って来た。

このホテルはこじんまりとしているが、支配人をはじめや従業員、部屋はもちろん立地環境に至るまで全てが良かった。

左端の建物がウィンザーホテル[ハグリー公園にて](1976.01.06)

再訪時のウィンザーホテル。右の建物は新館[ハグリー公園にて](※2000.08.06撮影)

タクシーを呼んでもらい、クライストチャーチ空港に直行。

 

昨日もそうだったが、クライストチャーチの俺の乗ったタクシーの運転手は「ここは〇〇〇だ」、「あれはスピットファイア」など説明してくれるので楽しい。

やはり、ニュージーランドのタクシーは「一人で乗る場合は助手席に乗る」のが常識らしく、日本とは異なりおもしろい。

 

空港のカウンターで11時20分にチェックイン。

クライストチャーチ空港(1976.01.06)

クライストチャーチ空港の国内外の主要都市の方向指示標。     
右側の下から4番目に「TOKYO 7075km」とあり(1976.01.06)

クライストチャーチ空港のロビー(1976.01.06)

搭乗まで1時間あるため空港内を見て回り、11時50分にテークアウェイで昼食を取る。

ダニーデン空港内のテークアウェイでもそうであったが、自分で食べたい物を皿に取ってコーヒーか紅茶のどちらかを選ぶと、最後に「Black or White」すなわちミルクを入れるか否かを聞かれるので、いずれかを選んで支払いをする流れになっている。

このため、俺みたいな貧乏旅行をしている者でも腹一杯食べれて、短い時間で気楽に食事をする事が出来る。

 

航空機については、一昨日のインバーカーギルダニーデンダニーデンクライストチャーチ、本日のクライストチャーチウェリントンいずれもボーイング737である。

ウェリントン行きNAC560便[クライストチャーチ空港](1976.01.06)

今日は雲があって風景については心配したが意外とよく見え、カイコウラ(Kaikoura)からクック海峡(Cook Strait)までは晴れていて、クック海峡上空からは眼下に南島と北島を同時に見る事が出来た。

ウェリントン行きNAC560便から見るブレナム(Blenheim)近郊(1976.01.06)

クック海峡上空にて。右手に北島、左手に南島を見る[NAC560便にて](1976.01.06)

クライストチャーチからウェリントンまで45分だが、飛行機に乗っていると時間の経つのは早く、これは未だ飛行機が珍しいからであろう。

 

ウェリントンに着いて、先ずは空港内のニュージーランド航空のカウンターで、10日に予約してある「オークランドシンガポール便(シドニー経由)」のリコンファームをする。

職員が「オークランドへ電話して欲しい」と言っているのは分かったが、どうすればよいのかわからないので「分からない」と適当に言ったら、職員が電話してくれ「OK Sir. Thank you」との返答だったので、俺も「Thank you」と返し安心して後にする。

 

次いで、両替所でUS300$をNZ284$47¢に交換。

ここでは「20$ Or10$」と希望する紙幣の種類を聞かれたので、20$を希望する。

 

空港でしたい事を終え、タクシーでピーポーズ・パレス・ホテル(Peoples Palace Hotel)に向かう。

 

予約証を提示し、朝食のみ頼んでチェックイン。

部屋はシングルで、2晩 朝食付きで15$。

部屋に入り、荷物を一応片付けてから市内見物に行く。

 

市内中心部のラムトン・キー(Lambton Quay)に行き、デパートや本屋に入ったり、通りでのウィンドウショッピングを楽しむ。

ラムトン・キー[ウェリントン](1976.01.06)

ラムトン・キー[ウェリントン](1976.01.06)

ホテルに帰る途中にフィッシュン・チップス(Fish and Chips)の店があったので、入って食べる。

初めて食べたフィッシュン・チップスは日本の天婦羅と同じような物で、熱くて美味い。

 

足が痛い痛いと思っていたが、何と左足の小指と薬指にマメが出来ているではないか。

よくこれで3時間もブラブラしていたものだと思う。

ホテルに戻ってマメを早速つぶす。

 

まだ午後6時半だが、今日は外には出ずホテルの127号室にて休む。

※「ウィンザーホテル」については、この時の印象が忘れられず、2000年8月に家族と

 旅行した際にも迷わず予約して宿泊。

 再訪時も支配人は代わっておらず、1976年当時の話をすると非常に喜んでくれ、ホテ

 ルの前にある「赤いクラシックカー」に家族を乗せて市内を案内してくれた。

 なお、この時は新館が出来ており、こちらに家族5人だけで宿泊させていただいた。

※「リコンファーム」について、これは「予約の再確認」の事で、彼の場合は国際線の

 みしており、ニュージーランドの国内線については不要だった。。

 しかし、この手続きについても現在では殆どの航空会社で不要となっているらしい。

※「マメを早速つぶし」について、かれは部活で剣道をしているためマメや水膨れが出

 来るのに慣れており、これに対する対応策は「出来たら、すぐにつぶしてしまう事」

 だった。

 

 

[40]クライストチャーチ

1月5日(月) 曇りのち晴れ

午前7時10分起床。

 

午前8時。

朝食を食べにダイニングルームへ行く。

メニューはトースト2枚、ベーコン、目玉焼き、トマト、グレープフルーツジュースとコーヒーで、デザートはピーチとプラムだった。

 

午前9時50分にホテルを出発。

ロールストン通り(Rolleston Ave)を右にクライスツ・カレッジ(Christ’s College)およびクライスツ・カレッジ教会堂(Christ's College Chapal)を見ながら、追憶の橋(Bridge of Remembrance)に行く。

クライスツ・カレッジとクライスツ・カレッジ教会堂(1975.01.05)

追憶の橋(1976.01.05)

次いでクライストチャーチ大聖堂に行き、料金15¢を払って尖塔に昇り、地上36mにあるバルコニーからクライストチャーチ市街全域を四方向から一望。

大聖堂の尖塔のバルコニーから見るクライストチャーチ。    

左側の青い建物は日本円の現金を両替したBNZ(1976.01.05)

 

大聖堂の尖塔のバルコニーから見るクライストチャーチ(1976.01.05)

大聖堂の尖塔のバルコニーから見る大聖堂前広場-1(1976.01.05)

大聖堂の尖塔のバルコニーから見る大聖堂前広場-2(1976.01.05)

大聖堂の尖塔のバルコニーから見るクライストチャーチ(1976.01.05)

大聖堂の尖塔のバルコニーから見るクライストチャーチ(1976.01.05)

次に持って来た日本円の現金について、両替が可能か否か確かめたく「National Bank」へ行くも「BNZ銀行(Bank of New Zealand)へ行ってください」と言われ、大聖堂の横にあるBNZに行って日本円の1万3500円をNZ40$27¢に交換。

ただし両替が可能なのは「お札」のみで、「コイン」は不可との事だった。

ちなみに、日本円が両替できるのはBNZとANZ(Australia and New Zealand Bank)の両銀行のみとの事。

 

デパートに初めて入るが、日本と比べて物凄く小さい。

また、日本人は お土産店では見るが、店内には一人もいなかった。

 

ハンバーガーを2個買って大聖堂の前の広場で食べていると、オバさんが話しかけてきて1時間位いろいろな事を話す。

 

また、学校の先生をしていると言うペリー・ロバクと仲良くなり、ハグリー公園(Hagley Park)をブラブラと歩いた後、彼の泊まっている所に来いというのでついて行く。

 

午後6時半に着き、午後10時20分まで滞在。

夕食をご馳走になり、俺は今回の旅行や日本の事を聞かれるままに話すとともに、彼からはニュージーランドについて聞く。

なお、話している途中で「どういたしまして」と日本語で言うと、英語では「You are welcomeと言う」と教えられる。

また、彼は日本語が少し出来、ひらがなや漢字も少し書けるが「日本語は難しい」と話していた。

 

このほかテレビも見るが、放送していたドラマ等については言葉も内容も全く理解できず。

 

彼はオークランドに住んでおり、彼の両親は通訳で現在 仕事で京都に行っていると言い、彼も日本へ行きたいと話していた。

彼は、オークランドに明後日 帰るとの事で、再びオークランドにて会おうと住所を書いて渡してくれる。

 

ペリー・ロバクの宿泊先に行った時、初めてバスに乗る。

このバスは、先ず運転手に行き先を告げ、料金と切符を交換してから座席に座り、何も合図しなくても目的地に着くと停まってくれたのには驚き。

ちなみに同じ区間を乗ったつもりだが、料金は往路が10¢、帰路は15¢で異なる料金が不思議だった。

 

クライストチャーチは今日で終わり、明日はウェリントンである。

この町は古風で歴史を感じさせる建物と近代的な建物が相半ばする、緑の多い綺麗でゆったりした街である。

 

なお、ニュー・タウン・ホールの噴水およびハグリー公園の噴水は夜になるとカラーになり、物凄く綺麗である。

 

午後11時15分にホテルに戻り、138号室でこれを書いている。

 

俺はクライストチャーチでニ日取って良かったと思う、

観光地のみを見るなら一日でも十分すぎるが、街の雰囲気をつかむまでには行かないであろう。

ウェリントンオークランドもニ日ずつ取ってあるので、ゆっくり見れると思う。

※観光名物となっている「トラム」について、当時は復元されていなかった事から、大

 聖堂前の道路にも「線路」はありません。

 

[39]インバーカーギルダニーデン空港 ⇒ クライストチャーチ

 

1月4日(日) 晴れ

飛行機の出発が午前7時10分のため、寝過ごしを心配してたいたが、信じられないくらい早い午前5時45分に起きてしまった。

 

午前6時10分まで寝袋の中にいた後、寝袋とグラウンドシートを片付けてバッグに収め、6時半にトイレにて着替える。

 

そして、着替えが終わった時点で「ニュージーランド縦断サイクリング」は終わった。

 

タウポ以来の服装に着替えたが、昨日までの服装が信じられないくらいで、久々だけに気持ちも良い。

 

今日からはサイクリングではなく、観光旅行でクライストチャーチ(Christchurch)、ウェリントン(Wellington)、オークランド(Auckland)の3大都市を各々2泊して見て回る。

 

インバーカーギル空港にてタウポ以来で日本人に会う。

彼は、昨日スチュワート島へ飛行機で行かれたとの事。

 

そして、俺を見て「お早うございます。あなたの事でしたか?」といきなり声を掛けてくる。

全く訳の分からない俺は「どうかしましたか」と聞くと、彼は「昨日スチュワート島のホテルで飲んでいる時、現地の人が『Jpanese  Cyclist』と何回も言って日本人が話題になっていたが、訳が分からず何の事かなと不思議に思っていた」と言い、俺と話していて「凄いですね」とも言った。

 

彼はダニーデン(Dunedin)からクイーンズタウン経由でマウント・クック(Mount Cook)に行かれるという。

ダニーデンまでの機内と空港で約1時間余り、久し振りに日本語の会話をした。

 

ダニーデンクライストチャーチ行きに乗り換えのため、何と5時間も待つ。

何故かは分からないが、昼食は空港のサービスで出されるなど、意外と快適であった。

ダニーデン空港(1976.01.04)

ダニーデン空港(1976.01.04)

機内サービスは「インバーカーギルダニーデン」は飴、「ダニーデンクライストチャーチ」は飴とオレンジジュースが出される。

 

午後1時15分、クライストチャーチに到着。

通路に入るなり、10数人の日本人団体客を見る。

 

先ずはインフォメーションへ行き航空券とホテルの予約行うが、ここでは国内全域の庶民用から超高級ホテルまで予約が可能だった。

 

到着した際、航空券とホテルの予約をするため、機内に預けた自転車や荷物を受取らずにインフォメーションに行ったため、予約を終えた際にこの事について聞くと「到着後に引き取りが無かった荷物については、専用の保管する場所がある」と言って教えてくれ、引き取りに行く。

 

タクシーで今ほど予約したウィンザーホテル(Windsor Hotel)に向かう。

カイタイア以来でタクシーに乗ったが、その時の経験から助手席に迷わず乗り込む。

ホテルには30分程度で着いたが、その間ドライバーが いろいろと説明してくれ楽しかった。

 

ホテルに入り荷物を置いた後、支配人に話して家にコレクトコールで電話を掛ける。

海外から電話がかかる事など想像もしないで受話器を取ったた父は、ビックリしたような感じだった。

この日は日曜日と言う事もあり、父は家族を呼び皆と30分ほど話すが、通話が余りにも明瞭なのには双方とも驚いていた。

 

このあと部屋に入り、荷物の整理をしてから風呂に入り、マイマイ以来で体を洗う。

自転車の入った輪行袋(奥の青い袋)と整理中の
荷物[ウィンザーホテルの138号室](1976.01.04)

午後6時半から花時計、水鳥が遊ぶエイボン川(Avon River)に沿って建つニュー・タウン・ホール(New Town Hall)、ジェームス・クック船長像(Captain James Cook Statue)、クライストチャーチ大聖堂(ChristChurch Cathedral)や大聖堂の前にある郵便局(Post Office)など市内を見て回り、テークアウェイでハンバーガーを2個買って午後9時半にホテルに戻る。

花時計(1976.01.04)

水鳥が遊ぶエイボン川に沿って建つニュー・タウン・ホール(1974.01.04)

ジェームス・クック船長の像。後方の建物はニュー・タウン・ホール(1976.01.04)

クライストチャーチ大聖堂(1976.01.04)

クライストチャーチ大聖堂(1976.01.04)

クライストチャーチ大聖堂(1976.01.04)

大聖堂の前にある郵便局(1976.01.04)

しかし、どこを見ても絵になる街であり、再び明日ゆっくり見て回る予定。

 

また、商店は閉店しても照明はそのままのためウィンドウショッピングが楽しめ、現地の人も楽しんでいた。

 

このほか、テークアウェイは俺にとってはレストランに入るより気楽で、日本で言うならば「立ち喰いソバ」の様なものである。

 

ウィンザーホテルの138号室でこれを書いている。

ちなみに部屋はツインルームで、料金は2晩朝食付きで12$。

※「インバーカーギル空港で会った日本人」について、彼はS県にある私鉄会社の重役

 で、「ニュージーランドはこれからの旅行先と思われ、見に来た」と言っておられ

 た。

※「国際電話」について、彼は帰国後に料金を聞いたところ、父親は「2万7千円だっ

 た」と答えたとの事。

※観光名物の「トラム」について、当時は復元されていませんでした

 

 

 

 

 

 [38]スチュワート島 ⇒ ブラッフ ⇒ インバーカーギル

 

1月3日(土) 晴れ後曇り

午前8時に起床。

出港は午後1時45分、積荷は午後1時15分からと聞いたので、余裕で午前10時まで寝た後、荷物を片付けてオーバンに戻る。

 

走れる範囲は昨日 走り尽くしたのだが、オーバンに教会があったので寄り道して外観のみ見る。

教会はオーバン長老派教会(Oban Presbyterian Church)だった。

オーバン長老派教会(1976.01.03)

教会を後に、カマヒ道路(Kamahi Road)をオーバンに向かうと、左手にはトムソン湾(Thomson Bay)を前にした美しいオーバンの町が見える。

カマヒ道路から見るオーバンとトムソン湾(1976.01.03)

午後1時ごろ港に戻ると、また2人の人が「クイーンズタウンで見た」と言って話し掛けて来た。

 

予定どおり午後1時15分、愛車がクレーンで吊り上げられ、船底に行ったのを見届けて乗船。

オーバン。左の道を進むと、すぐの所にオーバン港がある(1976.01.03)

オーバン港にてフェリー「ワイルア」に積み込まれる愛車(1976.01.03)

風景を見るべく、後ろのデッキに座る。

が、フォーボー海峡の風の物凄さと冷たさには、ヤッケを着て手袋をはめていても凍えるかと思った程だが、何とかブラッフまで耐える。

デッキに居る人の殆どは、毛皮や厚いコートを着ている。

フェリー「ワイルア」から見るオーバン[ハーフムーン湾](1976.01.03)

フォーボー海峡を航行中のフェリー「ワイルア」から見るスチュワート島(1976.01.03)

フェリー「ワイルア」から見るスターリング・ポイント。右に見える白と赤の
建物は「スターリング・ポイント灯台(Stirling Point Lighthouse)」(1976.01.03)

フェリー「ワイルア」から見るブラッフ(1976.01.03)

海峡も終わり、カモメを従えたフェリーは午後3時55分にブラッフに到着し、再びブラッフの土を踏む。

 

午後4時15分、クレーンで自転車が吊り上げられて降りてきた。

そして、本当に最後の走行になる30km余りの道をインバーカーギルに向かう。

 

インバーカーギルに着き、先ずG・T・Bに行くも閉まっている。

NACも同様だったが、ドアの貼紙を見ると「正月期間の航空券の販売は、インバーカーギル空港でしか発売しない」とあるので空港に向かう。

 

空港に来たのはいいがオープンは午後8時10分とあり、まだ1時間半もあるので市内に戻り、食料を買ったりして市内をブラブラと走り、クイーンズ公園(Queens Park)に行きゆっくりする。

 

ニュージーランドの公園は どこでもそうだが、花々が美しく咲き誇り木々が鬱蒼としていて、ゆったりとした大きいものだ。

クイーンズ公園(1976.01.03)

クイーンズ公園(1976.01.03)

クイーンズ公園前の広場にて(1976.01.03)

クイーンズ公園前の広場にて(1976.01.03)

午後7時55分、航空券を購入するため公園を後にして再び空港に向かう。

 

空港のカウンターで「インバーカーギルクライストチャーチ」、「クライストチャーチウェリントン」、「ウェリントンオークランド」の航空券と3都市のホテルを予約するが、クライストチャーチ空港のインフォメーションが閉まっていたため、クライストチャーチまでの航空券しか買えず。

「他の航空券とホテルはクライストチャーチ空港で予約して欲しい」と言われ、その旨を書いたものを貰う。

 

ちなみに、クライストチャーチまでは直行便ではなく、ダニーデン空港で乗り換えて向かう便しかなかった。

 

今日はインバーカーギル空港で野宿する事に決めているが、午後9時に最終便が到着するため、午後10時半に戻る事にして市内に向かい、時間が有るので一応簡単に荷物の整理をする。

しかし、1.5kmの近さとは非常にありがたい。

 

午後11時に空港に戻る。

 

先ず、行動を共にして来た自転車を分解して輪行袋に詰め、機内持込荷物は小さいバッグおよび風呂敷に包み、その他はいつも自転車の後ろのキャリアに積んでいたバッグ詰める。

 

そして、グラウンドシートを敷いて寝袋に入り、寒さ対策としてグラウンドシートの半分を寝袋の上に掛ける。

 

輪行袋に詰められた自転車やその他を見ると、「今度こそ本当に終わったんだ」と思うと同時に、いろいろな出来事が思い出される。

 

明日の飛行機は、午前7時10分発!!

では、野宿最後のO・YA・SU・MI。

※「スターリング・ポイント灯台」については偶然に写ったもので、彼はその存在すら

 全く知らず。

 「フェリーから見えた時点でも灯台とは思っていなかった」との事で、「このブログ

 を書く際に写真を見て調べ、初めて知った」と私に教えてくれた。

 なお、彼は「先日スターリング・ポイントの名前を知ったので、今回はこれを使用し

 た」と、私に話しています。

※「グラウンドシートの半分を寝袋に掛ける」について、グラウンドシートは帆布製

 で、大きさは180㎝四方。

 彼は寒さ対策として、シートの半分に寝袋を敷いて入り、残りの半分は折り曲げて寝

 袋の上に掛けて寝ていた。

 ちなみに、彼が使用していた寝袋は「厳寒期」の仕様です。

 

[37]ブラッフ ⇒ スチュワート島

 

1月2日(金) 晴れ

午前5時45分起床。

午前7時に出発して港に行く。

 

出港1時間前のため、俺が一番先だと思いきや、チケット売り場の前にはもう12~3人が並んでいる。

 

俺も後ろについて並んで待っていると、おじいさんが来て俺に話し掛けてくる。

言葉が分からないにもかかわらず、何とか話は通じるのだから面白い。

 

彼が言う所によるとバッジを見せて、「私はイングランド(England)のツーリングクラブのメンバーだ」と自己紹介した後、俺の自転車を指さして「あなたの自転車は素晴らしい」とべた褒めだ。

 

そして、この旅行の事や日本のことを聞かれるままに話したが、やはり「日本人は珍しい」と言われたほか、「レインガ岬から走って来て、今日のオーバン(Oban)で終わりだ」と言ったらビックリしていた。

そして、何故かは分からないが「ブラッフとオーバン間の往復のチケット」をくれ、名前と日本で住んでいる都市名を教えて欲しいと言われるので「O**** H*****,FUKUI」と教えて別れる。

感じの良いおじいさんだった。

 

別れて間もなく、船に乗り込む。

一番前の席に座っていると、ガラス越しに目の前をデッカイ籠に入れられた荷物が次々とクレーンで船底に収められる。

半分くらい積み終わったところで、俺の自転車も「アッ」と言う間に船底に行ってしまった。

クレーンで吊り上げられるという経験が日本では無いうえ、初めて見る光景だけに驚くばかり。

 

フェリーは午前8時15分に港を離れ、強い風の吹き荒れるフォーボー海峡(Foveaux Strait)を横切ってオーバンに着き、10時10分に最終目的地であるオーバンの桟橋に足を降ろす。

 

下船と同時に、2人の男の人が「クラウン・レーンジで自転車を押し上げている あなたを見た」と言って話し掛けて来たので、何とか話す。

話している内に船から荷物が降ろされ始め、俺の自転車がクレーンで上がって来た時には、港にいる全員から驚嘆の声が上がったほどだ。

フェリーからクレーンで降ろされる自転車[オーバン](1976.01.02)

ブラッフとオーバンを結ぶフェリー「ワイルア(WAIRUA)」(1976.01.02)

ここオーバンはニュージーランド最南端の村で、前にはハーフムーン湾(Halfmoon Bay)の白砂の砂浜、周りを緑の森に囲まれた中にある。

オーバン。右手中ほどにフェリー「ワイルア」が見える(1976.01.02)

先ず買物をして、走り始める。

スチュワート島には走れる道は殆ど無いという先入観があったが、いざ走ってみると まあまあ有るもので30kmほど走ったと思われる。

 

フォーボー海峡をへだてて南島がうっすらとあるのを見て、リンガリンガ海岸(Ringaringa Beach)まで行って昼食を食べた後、今度はディープ湾(Deep Bay)に行く。

リンガリンガ海岸(1976.01.02)

リンガリンガ海岸(1976.01.02)

リンガリンガ海岸からディープ湾に向かう道。正面はディープ湾(0976.01.02)

ディープ湾(1976.01.02)

ディープ湾に自転車を置きっ放しにして、鬱蒼としたシダの林を抜けると、下には ついさっきフェリーに乗って入って来たハーフムーン湾がある。

 

同じ道を戻りつつ、途中で左に曲がってゴールデン湾(Golden Bay)に寄る。

ゴールデン湾もやはり波は静かで、真青な海がある。

ディープ湾からゴールデン湾に向かう道(1976.01.02)

ゴールデン湾(1976.01.02)

再び自転車の所に戻り、オーバンに戻りつつ走っていると、インバーカーギルへ戻るのだろう、ハーフムーン湾から定期便の水上飛行機が飛び立って行く。

ハーフムーン・ベイから飛び立つ水上飛行機(1976.01.02)

オーバンを過ぎ、バッシング海岸(Bathing Beach)とバターフィールド海岸(Butterfield Beach)に立ち寄り、波静かなホースショー湾(Horseshoe Bay)に着く。

バッシング海岸(1976.01.02)

バターフィールド海岸(1976.01.02)

弱い陽光の中、ホースショー湾の砂浜では子供達や水鳥が遊んでおり、砂浜にはクッキリと俺の自転車のタイヤの跡もついている。

ホースショー湾(1976.01.02)

更にホースショー湾から北方向にあるリー湾(Lee Bay)に向かうも、途中で道は無くなり引き返さざるを得なかった。

ホースショー湾からリー湾に向かう道(1976.01.02)

今日は、オーバンから約5kmの所にある、ホースショー湾にある建築中の家で野宿。

ここまで来ると「もう本当に終わりなんだなあ」と、つくづく感じる。

 

ここスチュワート島は砂浜と原生林が非常に美しく、シダの木も鬱蒼としている、観光で荒らされていない島である。

 

今日は11人の人が、「俺を〇〇〇で見た」と言って話し掛けて来た。

クラウン・レーンジ、フォックス氷河、クイーンズタウンのほか、バスの中から見たなど様々だ。

こういうのを聞くと、「やはり俺は走って来たんだ」と言う満足感が頭の中を走る。

 

レインガ岬を出てから、年も明けて今日までの33日間、実にいろいろな事があった。

その間に走った日数は29日間、走行距離は3000余km。

人々には親切にされ、俺が目的とした所も十分すぎる位に果たした。

実に素晴らしい、そして短かった33日間。

 

英会話はもちろん英語力自体がゼロのため、去年の11月28日に羽田を出る時には「どうなる事か」と思ったにも関わらず「何とかなるだろう」だった気持ちも、今は「もう終わってしまったのか」と思うと、満足感と同時に実に寂しい気持ちだ。

 

そして、あと一週間でニュージーランドを離れねばならない事を思うと、時の経つのは何と早い事か。

33日間の間に、俺はニュージーランドの人々に世話になり助けられたほか、素晴らしい自然を十二分に知ったと思う。

 

観光地と言うのは さすがに素晴らしいが、それよりも「それ以外の所で素晴らしいものと出会った時、見つけた時、感じた時」、これこそ真の旅だと思う。

 

この体験は、特に「人々に親切すぎる位に親切にされた事」は生涯忘れないであろう。

そして、「日本人と殆ど会わない」と言うのも良いではないか。

 

Very good traveling in NEW ZEALAND.

※「ブラッフとオーバン間の往復チケット」について、彼は私に「料金は往復6$で、

 自転車は旅行者の荷物と同じ扱いだったのか、往復共に払っていない」と、ブラッフ

 に帰港後に話していた。

※「クレーンで吊り上げられるという……」について、私は「そのままの姿で吊り上げ

 られて格納された」のは、この時以外では1998年11月23日に青ヶ島を往復した際に乗

 った「還住丸」のみで、2017年11月6日に再訪した時は「あおがしま丸」に代わって

 おり、この時はコンテナに入れられて格納された。

※「水上飛行機」について、当時はオーバンとインバーカーギルを結ぶ定期便があり、

 写真は運よく写せたもの。

 この飛行機について、彼は私に「手元にあるMOUNT COOK AIRLINESの時刻表(01

 April 1975 - 31 October 1975)によると、午後4時オーバン発、午後4時20分イン

    バーカーギル着の095便とある」と、ブログを作成する際に調べた結果を話してく

 れた。

[36]ライムヒルズ ⇒ ウィントン ⇒ インバーカーギル ⇒ ブラッフ

 

1976年1月1日(木) 曇り

A  HAPPY  NEW  YEAR

 

午前10時半、野宿した小学校の正門にて1976年の第一歩の記念撮影。

ライムヒルズの野宿した小学校にて1976年の第一歩(1976.01.01)

久々に手袋をはめ、ヤッケを着ての出発。

手袋は午前中に外したが、ヤッケは一日中着ていた。

 

今日は曇りで、午後からは風も出たが、道も良く上り下りも無かったため軽快に走る。

 

国道6号線をウィントン(Winton)、マカレワ(Makarewa)と進み、インバーカーギル(Invercargill)に入る。

ウィントン(1976.01.01)

インバーカーギルは大きい街だが、元日とあってか人通りは殆どなく、ひっそりとしている。

通りにはクリスマスと新年を祝うのだろう、街灯にはデッカイ蝋燭のデコレーションなどが取り付けられてある。

ディー通り(Dee Street)[インバーカーギル](1976.01.01)

ディー通り(Dee Street)[インバーカーギル](1976.01.01)

テイ通り(Tay Street)[インバーカーギル](1976.01.01)

先ず、飛行機の予約をするためNACの支店に行くが、この日は閉店。

次いでG・T・B(Government Tourist Bureau)に行く。

ここも閉まっていたが、ドアにいろいろと貼ってある紙を見ると、スチュワート島へのフェリーは1日1便で、午前8時ジャストに出港というのが目に入った。

 

明日までフェリーは無いため先を急ぐ必要もなくなり、市内より1.5kmという近さにあるインバーカーギル空港(Invercargill Airport)に寄り、NACの時刻表(Timetable)を手に入れてブラッフ(Bluff)に向かう。

インバーカーギル空港にて入手した時刻表(※2023.01.24自宅にて)

インバーカーギルから国道1号線となり、ブラッフ湾(Bluff Harbour)が左に見えてくると同時に、湾を跨ぐようにしてブラッフの街並みが見える。

ブラッフ湾を跨いでみるブラッフ(1976.01.01)

オーシャン・ビーチ(Ocean Beach)を過ぎ、「A FRIENDRY WELCOME TO BLUFF」の歓迎標識を右に見て、ニュージーランド最南端の町ブラッフに入る。

「A FRIENDRY WELCOME TO BLUFF」 (1976.01.01)

風は物凄く強いが、まだ早いのでフェリー乗り場を探したり買物をしたりした後、道路の続くままに風に逆らって進むと……。

 

「南緯46度36分54秒、東経168度21分26秒」の地点にて道路は無くなっていた。

 

緯度と経度を示す標識と一緒に、世界および国内の主要都市の方向指示標も付けられており、

「1323km CAPE REINGA」

「STEWART ISLAND 35km」

と、出発地と目的地のもある。

「南緯46度36分54秒、東経168度21分26秒」 地点で道は無くなる(1976.01.01)

「南緯46度36分54秒、東経168度21分26秒」の地点にて(1976.01.01)

「南緯46度36分54秒、東経168度21分26秒」を示す標識(1976.01.01)

「1323km CAPE REINGA」と          
「STEWART ISLAND 35km」の指示標(1976.01.01)

何時でもそうだが、こういう物を見ると「来たんだ」と同時に「もう終わりか」という寂しい気持ちも……。

 

来た時とは逆に、風に追われる様にブラッフに戻り、ちょっとフェリー乗り場に寄った後、見つけた廃屋で今 野宿をしている。

 

昨日が野宿納めなら、今日は野宿始めか?

ブラッフ港にて(1976.01.01)

今日まで走って来て、羊、牛、馬を見ない日は無かったと思うし、風景については、北島が女性的なのに対し南島は男性的という印象も受けた。

 

何はともあれ、「素晴らしい国」それがニュージーランドである。

 

明日で一応終わりであり、現在までにおいて俺の目的とした所は100%満たされたと思う。

 

サイクリングについては、スチュワート島へのフェリーの事もあり、「オーバン(Oban)経由インバーカーギルで終了」と決める。

 

あとはクライストチャーチウェリントンを見て、7日または8日にオークランドに戻る予定。

 

あと二日間がんばろう。

※「1976年第一歩の記念撮影」について、彼はニュージーランドだから行ったもので、

 この様な事は、この旅行以外では無い。

 基本的に彼自身が入った旅行の写真は殆ど無く、彼は「自転車が俺の分身だ」といっ

 て私を入れて写していた。

※「南緯46度36分54秒、東経168度21分26秒の地点について、彼は「現在の地図にはス

 ターリング・ポイント(Stirling Point)と表記されている」と、このブログを書く際に調

 べた結果を私に教えてくれた。

 このほか距離についても、「CAPE REINGAは1323kmから1403kmに、LONDONは 

 18912kmから18958kmに修正されている」と教えてくれた。

[35]キングストンまで約20kmのワカティプ湖畔 ⇒ キングストン ⇒ フェアライト ⇒ ラムスデン ⇒ ライムヒル

 

12月31日(水) 晴れ

なんとなく出渋っている内に、午前11時になってしまった。

今日で1975年も終わりである。

 

今日は、道路は良く走りやすかったが、夕方から風が出て来て困った。

が、こう思うと今日は走行距離が延び、実に良く走ったと思う。

 

本年最後の走行は、快晴の中を右にワカティプ湖を見ながら始まった。

ワカティプ湖も終わるころ、湖に面してキングストンの町が美しく並んでいる。

ワカティプ湖畔からキングストンを遠望(1975.12.31)

キングストンの牧場にて(1975.12.31)

キングストン(1975.12.31)

キングストン(1975.12.31)

キングストンでは、キングストンとラムスデン(Lumsden)を結ぶ「キングストン・フライヤー号(Kingston Flyer)」が、煙を吐いて走っているのが遠くに見えた。

キングトンを後に、フェアライト(Fairlight)、アトール(Athol)、ファイブ・リバーズ(Five Rivrrs)と広々とした牧歌的な風景が続く中を走ってラムスデンに入る。

フェアライトあたり(1975.12.31)

アトールあたり(1975.12.31)

食料を買った後、走りながら左手を見るとラムスデン駅があり、そこには先ほどキングストンで遠くを走っていた、「キングストン・フライヤー号」が、今日の仕事を終えてか客車を離されて体を休めている。

キングストン・フライヤー号[ラムスデン](1975.12.31)

ラムスデンで部活関係のTに絵葉書を出した後、また羊が草を食む広大な牧場が続く中、カロリーヌ(Caroline)、ディプトン(Dipton)を通って、ここライムヒルズ(Limehills)に入る。

途中の牧場では、牧羊犬やオートバイに乗った牧童が、牧場内で羊の群れを移動させるのを実際に目にして見とれ、牧場の前で停まると子羊を含めて羊たちが興味深そうに俺の方に近付いて来る。

ラムスデンあたりの牧場。白い点は羊(1975.12.31)

ラムスデンあたりの牧場。白い点は羊(1975.12.31)

ラムスデンあたりの牧場。白い点は羊(1975.12.31)

ラムスデンあたりの牧場。白い点は羊(1975.12.31)

現在、ライムヒルズの小学校の脇にて野宿。

 

ブラッフ(Bluff)まで80kmそこそこ。

明日はスチュワート島(Stewart Island)に着くだろう。

 

現在、午後11時56分。

サマータイムのため、日本より4時間早く新年を迎えるのだが、一年前には外国で新年を、それも野宿で迎えようとは夢にも思ってもいなかった事だ。

 

今年は日本再縦断と現在のニュージーランド縦断を主として、いろいろと走った年である。

 

あと2分で新年。

俺は新年を迎えてから寝る事とした!

※「牧羊犬」については、牧童の指示のもとに「2匹の犬が羊を追い込んで移動させて

 いた」が、犬の行動とそれに合わせて移動する羊の従順さに彼と私は見とれていた。

※牧場から私達を見る子羊を見て、彼は「羊にしっぽがある事を初めて知った」と話し

 ていた。

 

[34]カードロナ ⇒ クラウン・レーンジ ⇒ アロータウン遠望 ⇒ ヘイズ湖 ⇒ クイーンズタウンキングストンまで約20kmの地点

    ②クイーンズタウンキングストンまで約20kmの地点

 

12月30日(火) 晴れ

クイーンズタウンに着いたのは、午後3時ちょっと前。

 

5$しか持っていなかった俺は、街に入って真っ先に見つけたANZ銀行で、USドル350$をNZドル332$40¢に交換。

こちらでは明日も営業するとの事で、日本との違いに驚く。

ANZ銀行[右手中ほどにある赤い屋根の建物]で両替。リーズ通り
(Rees Street)とビーチ通り(Beach Street)の交差点にて(1975.12.30)

キャンプ通り(Camp Street)とバララット通り(Ballarat Street)の交差点にて(1975.12.30)

両替後、少し街中を走って名物のゴンドラ乗り場に行き、ゴンドラでボブズ・ヒル(Bobs Hill)に上り、写真で有名な風景を眺める。

 

しかし、本当に美しい。

写真を見て美しいと思っていたが、肉眼で見る風景は比較できないほど雄大で美しい!!!

クイーンズタウン(1975.12.30)

ここからは、真下に整然とした美しいクイーンズタウンの街並みと真っ青な水をたたえたワカティプ湖(Lake Wakatipu)。

そして湖に突き出すケルビン半島(Kelvin Peninsula)及び それを取り巻くように連なるリマーカブル山系(The Remarkables)のほか、セシル山(Cecil Peak)やウォルター山(Walter Peak)などの山々が見える。

クイーンズタウンの街並み(1975.12.30)

ワカティプ湖とセシル山[左]およびウォルター山[右](1975.12.30)

そして遠くには先ほど酷い目にあったクラウン・レーンジ・サミットと、下って来た国道89号線の一部も見える。

クラウン・レーンジ・サミット [奥に見える山] を遠望(1975.12.30)

クラウン・レーンジ・サミットを望遠レンズで見る。
中腹に見える線の様な物は国道89号線(1975.12.30)

もう一度 街並みを見下ろし、風景を楽しんでいると、いろいろな色の球体のゴンドラが休みなく上がったり下がったりしている。

上り下りする球体のゴンドラ(1975.12.30)

上り下りする球体のゴンドラ(1975.12.30)

4時間ほど、雄大な中にも女性的な面を併せ持つ素晴らしい山紫水明の風景を満喫して、ゴンドラに乗って下りる。

ゴンドラからみるゴンドラの地上乗り場(1975.12.30))

ゴンドラの地上乗り場(1975.12.30)

ゴンドラの山上乗り場(1975.12.30)

ゴンドラの地上乗り場から山上乗り場に延びるケーブル(1975.12.30)

また、街の中を適当に走り、寮母さんに絵葉書を出し、お土産を買って日本への発送を依頼した後、来た道をフランクトン(Frankton)まで戻り、買物をしてハンドルを右に切り、キングストン(Kingston)に向かう。

 

両サイドに広がっていた牧場も消え、右にワカティプ湖を見て走る道路は、ボブズ・ヒルから見た湖に沿った道に違いない。

 

遠く湖を跨いで、クイーンズタウンがうっすらと見える。

リマーカブル山系の山麓にある牧場を望遠レンズで撮影(1975.12.30)

ワカティプ湖を挟んでクイーンズタウンを遠望(1975.12.30)

ニュージーランダーのキャンプ風景[ワカティプ湖畔](1975.12.30)

ワカティプ湖畔を走っていると、不意に車の中からグラスになみなみと注がれたビールを持った手が助手席から出て来て、約20m先で停まった。

 

停まった車に近づくと「先ずビールを飲んでくれ」と差し出され、聞かれるままに この旅行の事や日本のことを話しながら、更にもう一杯ご馳走になる。

 

余りの予想外の出来事だっただけに、その美味さも格別だ!!!

「良い旅行と新年を」と言って車はみるみる遠ざかり、見えなくなってしまった。

 

現在、キングストンまで大体20kmと思われるワカティプ湖畔でキャンプ。

外では、相当に強い風が吹いている。

※「ビールを飲んでくれ」について、彼は躊躇することなく飲んでいた。

 しかし、彼も私も「双方いずれも、現在では考えられない事だろう。特に飲む方は」 

 と思っている。

 ちなみに、彼は「当時の日本における飲酒全般に対する考えは、現在に比べ非常に大

 らかだった」と話しており、私もこの点については その様に思っている。

[34]カードロナ ⇒ クラウン・レーンジ・サミット ⇒ アロータウン遠望 ⇒ ヘイズ湖 ⇒ クイーンズタウン

    ①カードロナ~クラウン・レーンジ・サミット~アロータウン遠望~ヘイズ湖

12月30日(火) 晴れ

午前8時。

今回の旅行において俺としては非常に早く起きたのだが、想定外の事にビックリ。

 

想定外の事とは、テントの半分だけが夜露でグッシヨリと濡れていた事である。

もちろん、テントの上の洗濯物もだ。

 

丁度、谷になっているため、テントも洗濯物もまだまだ乾きそうになく、太陽が山から顔を出して濡れている物が乾いてから出る事にする。

 

午前10時半になって、やっと出発できる。

結局、いつも通りとなってしまった。

 

今日も昨日の続きで、早速 悪路に加え急勾配の上りが始まる。

自転車を引っ張って、右端を歩いたり左端を歩いたりしていると、グンとスピードを落とした車から、また後ろに引っ張られるキャンピングカーの中からも手を振られ、声が掛かる。

 

時々 振り返って見ると、国道89号線の上にはクッキリと自転車のタイヤの跡がついている。

国道89号線。左端には愛車のタイヤ跡が見える(1975.12.30)

引っ張り始めてから相当に時間も経ち、勾配も急に弱くなったのに伴いペダルを漕ぎ始めると、間もなく頂上に着いた。

 

着いてビックリ、標識には「SUMMIT CROWN RANGE 1120m」とある。

 

一昨日のハースト峠でヤマを越したと思ったのに、意外な落とし穴だ。

高さにして丁度2倍、きついはずだ。

 

しかし、日程が遅れていた事もあり、クロムウェルに行く予定を距離が短いからとの理由で変更したのだから自業自得か。

それも、2人のオーストラリア人がワナカでアドバイスしてくれたにもかかわらず……。

「SUMMIT CROWN RANGE 1120m」(1975.12.30)

「SUMMIT CROWN RANGE 1120m」(1975.12.30)

しかし、苦労した甲斐あってか、ここから見る風景には男性的な中に女性的な物を含んだ、素晴らしい眺めが広がっている。

 

十分に風景を満喫してカメラに収めていると、ネガフィルム用として使っていたカメラが振動のためか突然壊れ、スライドフィルムだけになる。

「SUMMIT CROWN RANGE」にて。道路は国道89号線(1975.12.30)

サミットを境に下りになるが、いざ下り始めると楽だろうと思いきや、反対に道路は相変わらずの悪路に加え急勾配で、下手にブレーキを緩めると転倒しかねない。

 

「792m下のカワラウ渓谷をを見よ(VIEW KAWARAU GORGE 792m BELOW)」との標識があったので見ると、下には国道6号線の上をマッチ箱みたいな車が走っている。

「792m下のカワラウ渓谷を見よ」の標識(1975.12.30)

「792m下を見よ」にて。中央部下寄りに見える道路は国道6号線(1975.12.30)

国道89号線にて(1975.12.30)

国道89号線にて(1975.12.30)

さらに下って行くと、左下方には広々とした牧場が広がっている。

ジグザグ道路(Zig Zag Road)に入るころ、前方には山を背にした古い金鉱の町アロータウン(Arrowtown)が見える。

ジグザグ道路から見るアロータウン(1975.12.30)

ジグザグ道路から見るアロータウン(1975.12.30)

ジグザグ道路から望遠レンズで見るアロータウン(1975.12.30)

カメラに収めて下り始めると、さすがは「ZIG ZAG ROAD」と標識が有るだけあって、もし反対のコースをとっていたらと思うと恐ろしくなる様な とんでもない道路で、下りきって振り返ると、いま通って来た道が上から下まで見える。

ジグザグ道路(1975.12.30)

アロータウンに行く予定だったが、明後日はもう正月だというのに所持金は5$しかなく、日本の銀行を思い浮かべると両替は今日しかないと思い、真っ直ぐクイーンズタウン(Queenstown)に向かう。

ちょっと暑いが、道路が良いのでピッチが上がる。

 

国道6号線に入って間もなく、右手に周囲を山々に囲まれた牧場の中に、小さくはあれ静かに水を湛えた湖水に木々を映すヘイズ湖(Lake Hayes)の美しさは格別で、まるで絵を見ている様だ。

一生涯こういう所で暮らして見たいと思う様な所だ。

ヘイズ湖(1975.12.30)

※「テントの半分が夜露で……」について、テントは偶然だが南北の向きに設営したた

 め、東側のみ乾いており西側が濡れていた。

※「右端を歩いたり左端を歩いたり」について、通る車は殆ど無かったため、勾配が少

 しでも緩くなるように取った行動。

※「カメラが振動のためか突然壊れ」について、彼は帰国後 修理に出したところ直った

 ため、次の旅行から再び使っていました。

※「ヘイズ湖」は彼のお気に入りで、「クイーンズタウンやアロータウンを訪れた際に

 は、是非とも足を延ばして欲しい」と今も話している。

 

 

[33]ワナカ湖 ⇒ ハウェア湖 ⇒ ワナカ ⇒ カードロナ

 

12月29日(月) 晴れ

昨日の蚊に続いて、今朝はブヨに悩まされる。

午前10時半に出発。

 

出発が遅いせいもあるのか、昨日と打って変わって久々に夏らしい天気だ。

ワナカ湖(1975.12.29)

ワナカ湖(1975.12.29)

ワナカ湖とマウント・アスパイアリング国立公園、ハウェア湖と素晴らしい風景が続く中を走るが、とんでもない道路のため舗装道路の有難さを身に染みて感じた一日でもあった。

 

走っている車は、殆ど全部と言って良いくらい後ろにキャンピングカーやモーターボートを引っ張り、土ボコリをモウモウと上げて走っている。

土ボコリをモウモウと上げて走る事については日本も同じだが、一つだけ極端な違いがある。

 

本当に信じられない事に、殆どの車は俺を中心に前後30~50m位を出来るだけスピードを落として、土ボコリが立たない様に走ってくれるのだ。

 

はっきり言って それ程の効果はないが、気分的には物凄く嬉しい。

 

日本では どちらかと言うと邪魔者扱いで、一度もスピードを緩めてもらった経験は無い。

 

ニュージーランドでは、自転車もれっきとした車と見てくれるみたいだ。

また、キャラバンカーに乗っている子供たちからも手を振られ、なんとなく気分が良い。

 

マウント・アスパイアリング国立公園の山々を水に映すワナカ湖畔を走り、ワナカ湖とハウェア湖(Lake Hawea)の両湖を見る事が出来る標高405mのネック(THE NECK)を過ぎると、今度はハウェア湖だ。

THE NECK(1975.12.29)

THE NECKから見るワナカ湖(1975.12.29)

THE NECKから見るハウェア湖(1975.12.29)

THE NECKから見るワナカ湖(1975.12.29)

THE NECKから見るハウェア湖(1975.12.29)

明るく強い陽光の中を走っていると、ミニバスで旅行している人達から不意に止められ いろいろと話す。

話している中で「どこからどこまで行くの」と聞かれ、「レインガ岬からスチュワート島まで」と言うと、いつもそうだが「考えられない」、「信じられない」と言った顔をする。

 

ここでは、俺の様な荷物を付けたサイクリングは珍しいのだろう。

俺もニュージーランドに入ってもう1ヵ月だが、まだ2人しか見ていない。

 

水筒を見せて「ワナカ湖の水だ」と言ってカップに入れて出してくれる人、「疲れが取れるから」と言ってキャンディを箱ごとくれる人、一緒に写真を撮る人などで、たった20分間ほどだったが本当に人懐っこい人達だ。

そして、皆から「Good traveling」、「Nice traveling」、「Have a safe trip」と声を掛けられ、バスは遠ざかって行った。

ハウェア湖(1975.12.29)

また、暑い中をモーターボートが疾走するハウェア湖を左に見ながら走り、大分過ぎた頃やっと舗装道路になった。

 

舗装道路になって間もなく、ハウェア湖のほぼ全容を見渡せる展望所があり、ここには真下にブルーの水を満々とたたえるハウェア湖から水が引かれ、カップやホースも備え付けられてある。

粋な計らいのお蔭で、カップでのどを潤したり、手や顔を洗ったり、備え付けのホースでワナカ湖方面から来たホコリで真っ白になった車を洗ったりする事が出来るようにしてある。

車で来た人は、ホースで水を掛けてホコリを落としており、車も実に心地よさそうに見える。

 

俺は、しばらくの間ハウェア湖を眺めて休憩した後、ポリタンクにハウェア湖の水を一杯に詰め、ワナカ(Wanaka)に向かう。

ハウェア湖(1975.12.29)

ハウェア湖(1975.12.29)

展望所で水は入れ替えたし、道は良いし、左にはハウェア湖、右には柵の無い牧場が広がる中では牛が心地よさそうに寝そべっている、美しくのどかな風景が続く。

 

この気分も束の間、道の真ん中で2頭の牛が通る車を無視して「ケンカ?」の真っ最中だ。

不思議と車はクラクションを鳴らすことなく、スピードを落として通り過ぎて行ってしまう。

 

俺はと言うと、やはり生身の体、なんとなく恐怖が頭にこびりついて離れない。

このため、俺も車を真似て2頭の牛の機嫌を損ねないようにゆっくりと道路の端を走って行こうとすると、どうした事か「車を無視して角と角を突き合わせていた牛」が俺を見るや否や逃げ出したのには、唖然とすると同時に「ホッ」とする。

 

ハウェア湖も終わり近くになると、湖畔にはキャラバンカーがズラーッと並んでいて、湖ではモーターボートが白い波を立てて軽快に疾走し、岸近くでは人々が泳いでいるのを うらめしそうに見ながら、ハウェア湖を後にする。

ハウェア湖を後にする(1975.12.29)

約1時間後、ワナカの町に入る。

数時間振りに再びワナカ湖を前にし、湖の向こうには頭を白くしたマウント・アスパイアリング国立公園の山々が連なっている。

ワナカ(1975.12.29)

ワナカ(1975.12.29)

 

ワナカ(1975.12.29)

郵便局で、先日フォックス氷河で書いたニュージーランドに来て2度目の葉書を出し、マーケットで食料、ノート、蝋燭、フィルム等を買い、大きな袋を抱えて店を出ると、4~5人の人が俺の愛車を見て盛んに「Very good bike」とほめている。

 

そして、俺を見つけると、サイドバッグに付けた小さな国旗を見てか「Are you Japanese」と聞かれ、「Yes」と答えると、やはり日本人は珍しいのかビックリしたような顔をして、いろいろと話し掛けてくる。

 

オーストラリアから来たという二人の青年が「これからどう行くのか」と聞くので、地図を出して予定していたクロムウェル(Cromwell)経由でクイーンズタウン(Queenstown)までを指さしていくと、「国道89号線は道が酷いから、クロムウェル(Cromwell)を通る国道6号線を行った方が良い」と言ってくれたのだが……。

 

日程が遅れていた事もあり、予定を変更して最短距離でクイーンズタウンへ向かうべく、注意を聞かずに国道89号線を行ったのがまずかった。

 

ワナカを出ると直ぐに牧場が広がり、それに合わせるかの様に道路も未舗装になり、道路には土ボコリがウッスラと積もっていて、走っている車は見えずとも、その舞い上がる土ボコリでどの辺を走っているかが良く分かり、自転車も真っ白である。

 

悪戦苦闘の末、カードロナ(Karodrona)から約10km進んだ牧場の脇にてキャンプ。

 

前を流れるクリークで手と顔を洗い、ついでに靴下は昨日に続いて2回目、ジャージは初めて洗ってテントの上に広げて掛け、テントに入る。

寝袋の上にて。Good night.

※「ノート、蝋燭」の購入について、ノートは日記用、蝋燭は灯り用として持って行っ

 た「折りたたみ式のランタン」に使用したもの。